千種高等学校ブログ  Vol.Ⅱ

 本日の千種高校

第6回インプロ学習

本日、第6回目の「インプロ学習」が行われました。本日のテーマは、全学年共通で「身体を使った協働作業」です。

  

最初にお題が与えられ、生徒たちはそのお題に沿ったことを、体を使って表現します。写真は、左から「戦車」、「洗濯機」、「アメリカ」をお題にしたものです。生徒たちは試行錯誤しながら、楽しく取り組んでいました。次回の授業も楽しみです。

球技大会

本日、球技大会が行われました。種目は、男子はサッカー、女子はバスケットボールです。

  

  
 
各学年2
チームをつくり、計6チームで試合を行いました。バスケットボールでは圧倒的な強さで3年生が決勝戦まで勝ち上がりました。一方、サッカーで決勝戦まで勝ち上がったのは1年生と2年生でした。惜しくも1年生は敗れてしまいましたが、チームワークの良さが表れた試合だったと思います。暑い中でしたが、生徒たちはよく頑張ってくれました。


千種高校歴史紹介シリーズ⑥ 

千種高校歴史紹介シリーズ⑥ 「千種高校独立記念庭園」

千種高校内の庭園と言えば、平成4年に整備された「中庭」が最もよく知られており、40歳代以上の卒業生の方々ならば、「ああ、昔ここにテニスコートがあったなあ…」という感慨を抱かれるのではないかと思います。また、「歴史紹介シリーズ①」でも最後に付け加えましたように、現在の庭園の象徴「自主敬愛の道」の碑が、平成4年までは今の藤棚の北側あたりに西向きに建てられていたということも、昔の卒業アルバム等から知ることができます。

今回ご紹介するのは中庭ではなく、また、校訓碑の置かれている本館西側の植栽でもありません。生徒の皆さんは、特別教室棟の1階を通って体育館に向かう時に「ピロティ」と呼ばれるコンクリートの空間に出ますが、その壁の南側、つまり千種高校の敷地の未申(ひつじさる)の方向南西隅っこに、「富士山」形の岩を中心に据えた実に見事な「日本庭園」があるのを知っているでしょうか。5階建ての校舎に隠れてしまっていてわかりにくいのですが、形のよい数々の岩は苔むして、四季折々の草花が石庭の周辺に生い茂り、秋には秋の、また冬には冬の風情が漂う不思議な空間となっています。唯、いつ頃建てられたのでしょうか、電信柱が2本背後にあり、その景観を壊してしまっているのが非常に残念です。              

 

 

さて、この庭園は何のためにいつ頃造られたのでしょうか。上記の「中庭」等については記録が残っているのですが、この庭園については明確な記録が残されておらず、すべては校長室に保存されている歴代の「卒業アルバム」から推測した結果なのですが、これは「昭和50年に県立千種高校として独立を果たしたことを記念して造られた、独立記念庭園である」と結論付けました。現在の体育館が建てられたのは昭和45年3月。特別教室棟が完成したのは昭和56年10月。昭和49年のアルバムには、体育館西方は黒い土のままで何もありませんが、昭和51年(1976)3月卒業の方のアルバムには、次のような立派な石灯篭を配置した日本庭園の写真が残されています。この年以降のアルバムにこの庭園の写真を見つけることはできません。本当に貴重な記録写真です。そして、写真の後方に現在も残る富士山形の岩が写っているではありませんか。どの程度の面積を持つ庭園であったかはわかりませんが、昭和56年までは体育館の西方に存在し、特別教室棟の工事によってその大部分が切り取られてしまった、つまり、現存する隅っこの庭園は「千種高校独立記念庭園」の一部であることは間違いありません。



しかし、何と美しい形をした富士山形の岩なのでしょうか。周りの石の配置によって、私たちは中心であるこの岩に導かれ、思わず手を合わせたくなるような気持にさせられます。昨日のブログでも紹介した「笛石山(千種富士)」がここ千種にはあるということ。そして、この岩が配されている方向を考えると、以前に校訓碑を紹介した折りにも書きましたように(歴史紹介シリーズ②)、妙見社或いは後山(うしろやま)や日名倉山を向くように据えられていますので、この庭園ひいては千種高校の建設にも、自然豊かなこの千種の地に対する感謝の念及び山々や清流千種川への信仰心が働いているのではないかと思います。エジプトのピラミッドやカンボジアのアンコール・ワット等世界遺産の例を待つまでもなく、現存する遺跡等を目にすると「誰が、どんな情念でこれを建てたのか?」という疑問が湧いてきます。この富士山形の岩を中心とする築庭とて、一体誰が如何なる思いで造られたのでしょうか。興味が尽きません。
                      
昭和50年といえばそれ程古い話ではありません。必ずやこの日本庭園造園の経緯に詳しい方やこの庭園を設計された庭師・造園師の方がおられるはずですので、何かご存知の方がおられましたら、是非とも本校までお知らせいただきますようお願い申し上げます。 

千種中高教員有志 笛石山登山

本日5月5日は「立夏」であり「端午の節句」。千種はすばらしい晴天に恵まれ、絶好の登山日和となりました。5月15日(月)~17日(水)に千種中学校の3年生が修学旅行に出かける時をとらえて1・2年生が地元千種の名峰「笛石山(千種富士)」への登山を15日に実施します。その下見を兼ねて、本日中学校の鳥居先生を団長に廣瀬夫妻と原田夫妻の計5名が登山を行いました。

まず「笛石山」の位置ですが、1枚目の写真をご覧ください。千種町の七野から昨年の冬に撮ったものですが、山頂近くに雪がある山、これが笛石山です。では、千種高校との位置関係はといえば、2枚目の写真は高校の東門から撮ったもので、高校の本館の上に見えている山、これが笛石山です。三角形の雪渓の上部に小さな黒い点が見えますが、これが「猫石」です。7枚目の写真は千種中学校の職員室から撮ったもので、この姿ゆえに「千種富士」と呼ばれています。

  
1 冬の笛石山(昨年11月撮影)    2 高校東門から見た笛石山      3 笛石山登山口
  
4 登山口近くの淵            5 色鮮やかなコバノミツバ       6 山頂ではヤマザクラが健在
   
7 笛石山遠望(中学校職員室から)  8 猫石からの眺望(花はミツマタ)   9 コバノミツバと千種遠望    
  
10 頂上で記念撮影(標高895m)  11 猫石から手を振る鳥居先生    12 千種高校遠望 
  
13 猫石(正面から)           14 猫石(左下側から撮影)       15 キアゲハ 

『宍粟50名山』(神戸新聞総合出版センター、2009)という登山ガイドブックの中に、「笛石山」という名の由来について、次のように書かれています。(p.72)

 「長水城主、宇野政頼主従は秀吉軍に追われ、作州へ落ち延びるべく河呂に至ったが、おりからの雨で千種川を渡れずにいた。その時、美作の竹田城主、新免伊賀守の援軍が到着したのを知らせる笛を対岸の大岩から吹いた。その笛の音を、すでに敵が待ち伏せている知らせと思い、押し寄せる敵中へ斬り込み自刃した。」という悲しい言い伝えがある。以来、この山を「笛石」と呼ぶようになった。

2枚目や7枚目の写真でもかすかにわかりますように、山頂近くに大きな岩があるのが見えます。この岩は「猫石」と呼ばれているのですが、岩の左下から見ると確かに丸い尾を持った一匹の猫が座っているように見えます。猫というよりは熊のようにも見えますが、香住の今子浦にある「カエル岩」を思い出させてくれました。鳥居先生は、山頂から携帯電話で中学校のグラウンドにいる先生と連絡を取り合いながら、この猫石の上に立って懸命に帽子を振り、互いの姿が見えたことを確認し合っておられました。

正確な標高は、894.6m。河呂の「行者霊水」の登山口から登り始めて1時間半。少し急峻な山道を進みながら登ってゆくと、澄み切った清流、目にも鮮やかな新緑、ツツジにも似たコバノミツバという花や黄色いミツマタの花々、そしてキアゲハという蝶が私たちを出迎えてくれましたし頂上からの眺めも最高で、本当に気持ちのよい汗をかくことができました。


次回は、いつになるか未定ですが、我が千種高校の校歌と千種第1尋常高等小学校の校歌で「ああ秀麗の三の丸」と詠われた、「日名倉山」(標高1047.4m)に挑戦しようと考えています。                      

なお、7月12日(金)午後に中高連携「千種学講座」として、上記『宍粟50名山』の編集代表・須磨岡輯(すまおか あつむ)先生の講演会「千種の自然を学ぶ」を千種高校の体育館で行います。地域及び一般の皆様にも是非お聴きいただきたいと存じますので、どうぞご期待下さい。

38回生 卒業アルバムを手にミニ同窓会

毎年、千種高校ではこの時期に卒業アルバムを学校で手渡し、ミニ同窓会さながらの集まりを持っています。本日午後1時頃から、38回生(今年3月卒業)の人たちが続々と生徒玄関前に集まり、元担任の上山麻美先生(現1年生担任)と写真館バップホリサカ(佐用町)の堀坂様から一人ひとり思い出の卒業アルバムを受け取りました。

  

「やあー久しぶり!」「えーっ、だいぶ変わったやん。」…などの言葉が飛び交い、卒業以来それほど時間が経ったわけではないけれども、それぞれが千種から離れて遠くで暮らし始めているが故に何か大きな変化があったように感じられ、互いの近況について語り合ったり、少し恥ずかしそうに上山先生に新天地での暮らしぶりについて報告し、受け取ったばかりのアルバムを開いては歓声を上げたり、互いに高校時代の思い出の写真を指差しては笑い合ったりしていました。