『兵庫教育』所収・梅谷博貞先生論文 |
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解説 |
『兵庫教育』(第28巻 第1号 通巻301号 昭和51年4月20日発行)所収
「僻地小規模校独立の道を求めて」
梅 谷 博 貞
1 独立を迎えて
正面玄関のコンクリート壁に「千種分校」と埋めこまれていた鉄板文字を外して、「県立千種高等学校」の文字を入れた。
「応接室」とあった標示板を「校長室」と書きかえて4月を迎えた。
昭和50年度は特別の年であった。
生徒も教師も父母も地域の人たちも念願し続けていた独立校になったのである。
だから、学校経営の方針や重点を決めるときも「校長先生がお見えになってから…。」とすべて独立待ちとなっていた。
「校務分掌をどうするかね」「校長先生の御意向を聞いてからにしよう。」
「野球部を軟式から硬式に変えたいが…。」「校長先生が見えてから決定しよう。」という具合であった。
それ故、新学期の出発はすべて遅れていた。
しかし、独立校となったよろこびは大きなムードとなっていたのである。
学校経営の重点
悲願であった独立第一歩の年として、従来の気風を刷新し、独立校としての自覚にめざめ、地域社会の期待にこたえ、その使命と責任を果すため、校風を刷新し、基礎の確立につとめる……。
これは、校長の手によって書かれた学校経営の重点の序文であるが、このときの校内の空気をよく反映している。
学校経営の重点をまとめるため、各部から原案を出してもらったのであるが、「独立を契機として、職員、生徒一体となり……校風の樹立につとめる。」「独立校としての学校運営の円滑を期するため、校務分掌組織の事務範囲と目標を明確にし……。」などとあり、同和教育室からのものにも、「特に本年は独立の転機に立って、小規模独立校の特性を生かし……。」とあった。
なにぶんにも全校生269名という小さな学校のことである。
生徒や教師の気持ちがすぐにひびきあい敏感に反応しあうのである。
生徒も「独立したんだから」という気負いと緊張のようなものを持っていた。
教職員の間でも「独立校にふさわしいように……」という言葉を前置きにして討論することが多かった。
町の人たちも「独立したというのに……」ということばで生徒の態度や学校を批判し、「さすがは独立しただけのことがあって…。」と評価するのだった。
今、私たちは、「独立してどれだけ変ったのだ。」という評価の前に立たされている。
2 僻地小規模校の道を求めて
生徒、教師、父母や地域の人たちが独立校になることを強く願ったのは、「分校」が持っているいろいろな矛盾に悩んでいたからである。とくに劣等感や被差別感を抱きやすい生徒たちにとっては切実なものであった。
その念願が達成されて「独立校」になったのであるが、僻地小規模校という事実は少しも変っていなかった。
「みどりのふる里」千種の山野は美しいが、そこは産業にも文化にも恵まれていない土地であり、生徒の家庭は貧しく、人口の減少が続いている。
学校の施設、設備は不十分であり、予算は少ない。
寒冷地であり、交通が不便で、県立の独立校として「僻地手当」のつくただ一つの学校でもある。
僻地小規模校としての矛盾は、独立校となってもやはり残っているのだった。
しかし、小規模校は欠陥だけを持っているのだろうか――
昭和50年度研究テーマとして私たちは、「僻地小規模独立校の特性をどのように生かしていくか」と、ただ一行だけ書いている。
しかし、これは私たちがこの一年間追い求めたテーマであるのだ。
「生徒に対して甘すぎるのではないのか。」という自戒のことばがよくいわれている。
放課後になると、職員室は生徒たちでいっぱいになることがある。
職員室のストーブが生徒たちに占拠されてしまうこともしばしばである。
英語の教師を囲んで海外文通の話題に花をさかせている生徒があり、現国の若い教師のまわりでは生徒が雑談している。
古典の教師は毎日数名ずつを呼んで小テストをやっている。
その前の若い数学教師のところには数人の生徒が質問に来て、いっしょに問題を解いているが、ときどき「先生ダメダー」といって教師の頭をつかんでゆすったり、肩をたたいたりもする。
生徒と教師が人間的につながり、「落ちこぼさない教育」のためにはもってこいの条件を持っているのである。
一人の生徒の母親が病気をしてもすぐ職員室の話題になり、一人の生徒が怪我をしたと聞くと全職員が総立ちになる。
たまたま一人の生徒が授業中、こっそり弁当箱をあけようとしたことがあった。すぐ職員室の話題になり、次から次へと職員がその生徒に説教を試みたので、「教師全員が私を弾圧している。」と反撥させたこともあった。
いいにしろ、悪いにしろ、ひとりひとりの生徒や教師の行動がすぐ全体にひびくのである。
ある教師が、寝たきりの少女の詩を紹介した。数人の生徒は早速その少女に慰めの手紙を書き文通をつづることになった。
又、教師がひと言いえば、下校時に、便所の下駄はきれいにそろえられているのである。
この小規模校の特性を、どのように体系化し、計画化して行くかが私たちの課題である。
3 点検と反省からの出発
3学期に入って、教師はレポート書きに忙しかった。
自分の所属した校務について、学級経営、クラブ指導、教科指導について、この一年間に実践したことを記録し、そのなかで出合った悩みや問題点、反省点を書いてプリントした。
膨大な実践記録集が出来上がったのである。
これをもとに実践点検の職員会をすかいにわたって続行した。
なにぶんにも少人数の職員会である。
「生徒Kの指導は、あのやり方ではよくなかったのではないか。」「2組のTとOの恋愛問題はどんな指導をするべきなのか。」と具体的である。
「われわれ教師が、学校経営の重点という目標に向って進むように、学級経営にも目標を明確にすべきではなかったろうか。」との意見もあった。
小規模、少人数、人間的なつながりの深さ。だからこそ「すぐ分り合ってしまう」という甘さをどのように克服すべきなのか。
現在、私たちは昭和51年度の校務分掌の作成にかかっている。
再び学校経営の重点を設定する作業に取り組む季節になった。
今の私たちの合言葉は「50年度の反省に立って」である。
もちろん、私たちは反省ばかりしているわけではない。同和教育でも、教科指導、生徒指導についても、いろいろと実践し成果を挙げたという自信も持っている。
しかし反省点や問題点は余りにも多いのである。
現在の教育界がかかえている問題は大きくて複雑である。私たちの力の及ばないものが多い。
51年度も又、方針や目標を立て、そして50年度と同じように達成できないであろうし、きびしい反省会をもつことであろう。
(県立千種高等学校・教頭)
筆者である梅谷博貞先生は、昭和44年4月から昭和50年3月まで分校長、昭和50年4月から昭和52年3月まで、初代吉田太郎校長のもとで教頭を務められた方である。上記論文は、『学校開設40周年記念誌』や『50周年記念誌』以外に、本校が独立校となった頃の様子を今に伝えてくれる貴重な証言記録である。約40年前に手に入れた冊子を捨てずに持っていたのであるが、去る平成26年6月15日(日)、同冊子を久々に手にしてぱらぱらとめくっていて「発見した」のがこの論文である。独立当時の喜びと共に、先生方の苦悩が率直に語られていて興味深い。それでも当時の生徒数は269名。現在は100名である。梅谷先生が何度も用いておられる「小規模独立校」の現状は、当時にも増して厳しいものがある。私たちは先生の言葉を何度も読み返し、時を超えてその問題意識を共有しつつ「千種高校」存続の道を常に模索していかなければならない。
なお、梅谷先生は、後に「県立温泉高校(既に廃校)」の校長となられており、前述の『40周年記念誌』(昭和63年11月発行)には「前県立温泉高校長」として独立当時の回顧録を寄せておられる。県立浜坂高校や第4代校長上山勝先生に問い合わせた結果、平成15年1月にお亡くなりになっていたことが分かった。謹んでご冥福をお祈りしたい。
(平成26年6月19日 記 教頭 原田尚昭)
『兵庫教育』表紙 梅谷博貞先生
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