千種高校歴史紹介シリーズ① 石碑「自主敬愛の道」 |
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解説 |
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千種高校歴史紹介シリーズ② 校訓碑「自立・信愛」 |
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解説 |
本HPの「校訓・校章・校歌」の項でも紹介してありますように、本校の校訓「自立・信愛」は、昭和55年2月25日に制定されました。どのような経緯でこの校訓が制定されたかは、特に記録には残っていないのですが、本校の旧職員であり宍粟市教育委員でもあられる村上紘揚(ひろあき)先生(元山崎高校長)に伺うと、当時同和教育の研究が盛んに行われ、迷信や因習にとらわれない科学的な物の考え方を身につけなければいけないということで、「自立」や「自律」という言葉が重んじられたとのことです。 |
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千種高校歴史紹介シリーズ③ 校訓額「自立・信愛」 |
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解説 |
千種高校の校訓「自立・信愛」については、制定年月日やその意味するところ、そして本館西側に鎮座する校訓碑の由来について前回紹介をさせていただきました。如何なる学校であれ、小中高の別を問わず、その学校の校訓を記した校訓碑や校訓額は必ずあるものであり、特に珍しい話でもないのですが、千種高校ほど多くの校訓額を掲げている学校は他に例を見ないと思います。 |
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千種高校歴史紹介シリーズ④ 「堀井隆水先生の書」 |
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解説 |
千種高校の玄関に足を踏み入れるとまず目に入る大きな書の額。生徒の皆さんは、何が書いてあるのだろうと思っていることでしょう。右の額には「成名毎在窮苦日 敗事多因得意時」、左の額には「盛年不重来一日難再晨 及時当勉励歳月不待人 隆水書」と書いてあります。
『名を成すは、常に窮苦の日にあり、敗れることの多くは、得意の時による。』 これは、「物事に成功したり、立派な行いや人間としてよりよく成長するのは、困ったり苦しんだり窮したりしている時にこそ達成される。また反対に失敗したり、敗れたりすることの多くは、得意になっている時である。」と意味しています。 |
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千種高校歴史紹介シリーズ⑤ 「絵画」 |
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解説 |
3月末に、玄関の書を紹介してから随分と時間が経過いたしましたが、今日は歴史紹介シリーズの第5回目として、本校に縁(ゆかり)の深い絵画を2つ紹介します。
第13回卒業生が、卒業記念に80号(約1.6m× 1.3m)の絵画を寄贈してくれました。 画家は山崎町にお住まいの福岡先生で、作品は東京の美術展で入選された「舟溜り(ふなだまり)」です。本館玄関に掲示して、長く鑑賞させてもらいます。
宍粟の山中で育ったせいでしょうか、私は海や舟を見ると心が晴れる思いがするのです。それででしょうか、私の絵は海や舟をテーマとしたものが殆どです。 この80号の油絵も揖保川の河口近くの舟溜りを描いたものです。私がこの場所をテーマとして絵を描き始めてから、かれこれ30年近くになります。当時は木製の小さな海苔舟がひっそりとたたずみ、静かで落ち着いた雰囲気がありました。しかし、今では舟もプラスチック製でモーターを付け、うなりを上げて走ります。なんとなく周辺の風景とそぐわないようになってきました。
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千種高校歴史紹介シリーズ⑥ 「千種高校独立記念庭園」 |
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解説 |
千種高校内の庭園と言えば、平成4年に整備された「中庭」が最もよく知られており、40歳代以上の卒業生の方々ならば、「ああ、昔ここにテニスコートがあったなあ…」という感慨を抱かれるのではないかと思います。また、「歴史紹介シリーズ①」でも最後に付け加えましたように、現在の庭園の象徴「自主敬愛の道」の碑が、平成4年までは今の藤棚の北側あたりに西向きに建てられていたということも、昔の卒業アルバム等から知ることができます。
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兵庫県立千種高等学校校歌音声ファイルについて |
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解説 |
平成25年1月18日(金)、本校の校歌音声完全版がカセットテープで事務室倉庫内に残されていることがわかりました。調べてみると、「混声三部合唱」・「独唱」・「ピアノ伴奏のみ」の3種類が作製されており、テープと共にケースの中に小さく折りたたまれて入っていた手紙によって、昭和63年11月に兵庫県立西宮高等学校音楽科1年生の生徒たちによって作られた、言わば「友情製作」によるものであることがわかったのです。昭和63年11月27日に本校の「学校開設40周年記念式典」が挙行されており、その式典での披露に向けて当時の校長上山先生が、音楽科を持つ県立西宮高校に校歌テープの作製を依頼されたものです。 以下、テープケースの中にあった手紙の文面を掲げます。
秋もめっきり深まってきましたが、お変わりございませんか。私は音楽科1年生担任の吉永陽一と申します。寺尾先生からこのお話を受け、クラスで話しましたところお役に立てるならばと皆、大乗り気でお引き受けしました。しかし、出来ばえはもう一つで、ご期待に添えましたかどうかは疑問ですが、お納め下さい。 A面には「合唱」、B面には「独唱」と「ピアノ伴奏のみ」を録音いたしましたので用途に応じてご利用下さい。 歌唱指導には、B面の「独唱」がメロディーがはっきりするのでよろしいかと存じます。 なお、伴奏及び混声合唱の編曲は山畑誠、独唱は江平真理子、伴奏安田亮子、そして合唱は1年生全員とすべて生徒が行いましたので拙い部分も多いかと存じますが、お許し下さい。また、この録音に使用いたしました楽譜につきましては、後日改めて送らせていただきます。 これから、ますます寒い季節を迎えますので、くれぐれもご自愛下さい。
上 山 勝 先生 昭和63年11月22日 吉 永 陽 一
手紙に登場する「寺尾先生」とは、当時の県立西宮高校校長、寺尾滋明先生です。後に、県立教育研修所長と県立長田高校校長を歴任され、退職校長の会「柏樹会」の会長にもなられています。また、「上山勝先生」とは本校の第4代校長で、電話でお尋ねしますと、「寺尾校長が友人であったので気軽に頼んだのですが、西宮高校の生徒たちがこころよく引き受けてくれたり、また吉永先生からそのような手紙をいただき、ありがたいことです。」とのことでした。そして、当時の西宮高校音楽科1年担任の「吉永陽一先生」は吹奏楽界では非常に有名な方で、母校である兵庫高校を数々の全国優勝に導き、西宮高校でも同様に大きな足跡を残され、現在神戸夙川学院大学特任教授、兵庫県吹奏楽連盟理事長、関西吹奏楽連盟副理事長、NPO法人アマバンド&スポーツ副理事長等の要職に就かれています。(お名前の漢字「吉」は、本当は上が「土」です) 多くの学校では、周年行事を機に校歌のCDを作っているのですが、本校は小規模であるが故にそれだけの経済的余裕がありませんでしたので、当時の西宮高校音楽科の生徒による、本当に手作りのテープ製作となりました。改めて、当時の生徒の皆さん、そして吉永先生に厚くお礼申し上げます。「手作り」という意味では、是非とも近い将来、上の音声ファイルの第4番目として本校の生徒による合唱をお聞かせできるようにしたいと考えています。どうぞご期待ください。 なお、この校歌の音声が録音された昭和63年11月は、下記の文面にもありますように、作曲者の秋月直胤先生が遠く埼玉でお亡くなりになった時であり、全くの偶然ではあれ、本校の校歌にとっては新たなる命が吹き込まれ、魂のバトンタッチがなされた瞬間であったのだと思います。是非とも、混声三部合唱・独唱・ピアノ伴奏のみの、それぞれの美しき調べをご堪能ください。(平成25年1月21日 記)
※なお、音声をお聞きになればお気づきになるかと思いますが、「千種」を「ちぐさ」と歌っています。古くは「ちぐさ」と読むのが普通であったのですが、段々と両方の言い方が混在し、「ちくさ」と呼ぶ人が増える中で、平成4年頃に条例や文書で明記したわけではないのですが、行政上は「ちくさ」で統一しようということになったとのことです。なお、高校周辺の字名は「千草」で、これも今は「ちくさ」と言っていますが、本来は歌でも「庭の千草(ちぐさ)」と言うように「ちぐさ」と読みます。地元のゴルフ場「千草カントリークラブ」は現在も英語表記を「CHIGUSA COUNTRY CLUB」としています。なお、本校の「学校要覧」(上掲の楽譜と詞)では、「千種川」は昔も今も「ちぐさがわ」、最後の「千種」は平成19年度から「ちくさ」としています。 |
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兵庫県立千種高等学校校歌の作詞者と作曲者について |
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解説 |
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春名文庫について |
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解説 |
本校図書室の窓側西端の書棚に、「春名文庫」と書かれた木製の掲示板が立てられています。実は、これはつい最近まで同じ図書室内の全く別の書棚の上に置かれていました。年を経る中でその意味も全く忘れ去られてしまっていたものなのですが、今回は「春名文庫」について、その記録を後世に遺すべく書き留めておきたいと思います。 |
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『兵庫教育』所収・梅谷博貞先生論文 |
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解説 |
『兵庫教育』(第28巻 第1号 通巻301号 昭和51年4月20日発行)所収
「僻地小規模校独立の道を求めて」
梅 谷 博 貞
1 独立を迎えて
正面玄関のコンクリート壁に「千種分校」と埋めこまれていた鉄板文字を外して、「県立千種高等学校」の文字を入れた。
「応接室」とあった標示板を「校長室」と書きかえて4月を迎えた。
昭和50年度は特別の年であった。
生徒も教師も父母も地域の人たちも念願し続けていた独立校になったのである。
だから、学校経営の方針や重点を決めるときも「校長先生がお見えになってから…。」とすべて独立待ちとなっていた。
「校務分掌をどうするかね」「校長先生の御意向を聞いてからにしよう。」
「野球部を軟式から硬式に変えたいが…。」「校長先生が見えてから決定しよう。」という具合であった。
それ故、新学期の出発はすべて遅れていた。
しかし、独立校となったよろこびは大きなムードとなっていたのである。
学校経営の重点
悲願であった独立第一歩の年として、従来の気風を刷新し、独立校としての自覚にめざめ、地域社会の期待にこたえ、その使命と責任を果すため、校風を刷新し、基礎の確立につとめる……。
これは、校長の手によって書かれた学校経営の重点の序文であるが、このときの校内の空気をよく反映している。
学校経営の重点をまとめるため、各部から原案を出してもらったのであるが、「独立を契機として、職員、生徒一体となり……校風の樹立につとめる。」「独立校としての学校運営の円滑を期するため、校務分掌組織の事務範囲と目標を明確にし……。」などとあり、同和教育室からのものにも、「特に本年は独立の転機に立って、小規模独立校の特性を生かし……。」とあった。
なにぶんにも全校生269名という小さな学校のことである。
生徒や教師の気持ちがすぐにひびきあい敏感に反応しあうのである。
生徒も「独立したんだから」という気負いと緊張のようなものを持っていた。
教職員の間でも「独立校にふさわしいように……」という言葉を前置きにして討論することが多かった。
町の人たちも「独立したというのに……」ということばで生徒の態度や学校を批判し、「さすがは独立しただけのことがあって…。」と評価するのだった。
今、私たちは、「独立してどれだけ変ったのだ。」という評価の前に立たされている。
2 僻地小規模校の道を求めて
生徒、教師、父母や地域の人たちが独立校になることを強く願ったのは、「分校」が持っているいろいろな矛盾に悩んでいたからである。とくに劣等感や被差別感を抱きやすい生徒たちにとっては切実なものであった。
その念願が達成されて「独立校」になったのであるが、僻地小規模校という事実は少しも変っていなかった。
「みどりのふる里」千種の山野は美しいが、そこは産業にも文化にも恵まれていない土地であり、生徒の家庭は貧しく、人口の減少が続いている。
学校の施設、設備は不十分であり、予算は少ない。
寒冷地であり、交通が不便で、県立の独立校として「僻地手当」のつくただ一つの学校でもある。
僻地小規模校としての矛盾は、独立校となってもやはり残っているのだった。
しかし、小規模校は欠陥だけを持っているのだろうか――
昭和50年度研究テーマとして私たちは、「僻地小規模独立校の特性をどのように生かしていくか」と、ただ一行だけ書いている。
しかし、これは私たちがこの一年間追い求めたテーマであるのだ。
「生徒に対して甘すぎるのではないのか。」という自戒のことばがよくいわれている。
放課後になると、職員室は生徒たちでいっぱいになることがある。
職員室のストーブが生徒たちに占拠されてしまうこともしばしばである。
英語の教師を囲んで海外文通の話題に花をさかせている生徒があり、現国の若い教師のまわりでは生徒が雑談している。
古典の教師は毎日数名ずつを呼んで小テストをやっている。
その前の若い数学教師のところには数人の生徒が質問に来て、いっしょに問題を解いているが、ときどき「先生ダメダー」といって教師の頭をつかんでゆすったり、肩をたたいたりもする。
生徒と教師が人間的につながり、「落ちこぼさない教育」のためにはもってこいの条件を持っているのである。
一人の生徒の母親が病気をしてもすぐ職員室の話題になり、一人の生徒が怪我をしたと聞くと全職員が総立ちになる。
たまたま一人の生徒が授業中、こっそり弁当箱をあけようとしたことがあった。すぐ職員室の話題になり、次から次へと職員がその生徒に説教を試みたので、「教師全員が私を弾圧している。」と反撥させたこともあった。
いいにしろ、悪いにしろ、ひとりひとりの生徒や教師の行動がすぐ全体にひびくのである。
ある教師が、寝たきりの少女の詩を紹介した。数人の生徒は早速その少女に慰めの手紙を書き文通をつづることになった。
又、教師がひと言いえば、下校時に、便所の下駄はきれいにそろえられているのである。
この小規模校の特性を、どのように体系化し、計画化して行くかが私たちの課題である。
3 点検と反省からの出発
3学期に入って、教師はレポート書きに忙しかった。
自分の所属した校務について、学級経営、クラブ指導、教科指導について、この一年間に実践したことを記録し、そのなかで出合った悩みや問題点、反省点を書いてプリントした。
膨大な実践記録集が出来上がったのである。
これをもとに実践点検の職員会をすかいにわたって続行した。
なにぶんにも少人数の職員会である。
「生徒Kの指導は、あのやり方ではよくなかったのではないか。」「2組のTとOの恋愛問題はどんな指導をするべきなのか。」と具体的である。
「われわれ教師が、学校経営の重点という目標に向って進むように、学級経営にも目標を明確にすべきではなかったろうか。」との意見もあった。
小規模、少人数、人間的なつながりの深さ。だからこそ「すぐ分り合ってしまう」という甘さをどのように克服すべきなのか。
現在、私たちは昭和51年度の校務分掌の作成にかかっている。
再び学校経営の重点を設定する作業に取り組む季節になった。
今の私たちの合言葉は「50年度の反省に立って」である。
もちろん、私たちは反省ばかりしているわけではない。同和教育でも、教科指導、生徒指導についても、いろいろと実践し成果を挙げたという自信も持っている。
しかし反省点や問題点は余りにも多いのである。
現在の教育界がかかえている問題は大きくて複雑である。私たちの力の及ばないものが多い。
51年度も又、方針や目標を立て、そして50年度と同じように達成できないであろうし、きびしい反省会をもつことであろう。
(県立千種高等学校・教頭)
筆者である梅谷博貞先生は、昭和44年4月から昭和50年3月まで分校長、昭和50年4月から昭和52年3月まで、初代吉田太郎校長のもとで教頭を務められた方である。上記論文は、『学校開設40周年記念誌』や『50周年記念誌』以外に、本校が独立校となった頃の様子を今に伝えてくれる貴重な証言記録である。約40年前に手に入れた冊子を捨てずに持っていたのであるが、去る平成26年6月15日(日)、同冊子を久々に手にしてぱらぱらとめくっていて「発見した」のがこの論文である。独立当時の喜びと共に、先生方の苦悩が率直に語られていて興味深い。それでも当時の生徒数は269名。現在は100名である。梅谷先生が何度も用いておられる「小規模独立校」の現状は、当時にも増して厳しいものがある。私たちは先生の言葉を何度も読み返し、時を超えてその問題意識を共有しつつ「千種高校」存続の道を常に模索していかなければならない。
なお、梅谷先生は、後に「県立温泉高校(既に廃校)」の校長となられており、前述の『40周年記念誌』(昭和63年11月発行)には「前県立温泉高校長」として独立当時の回顧録を寄せておられる。県立浜坂高校や第4代校長上山勝先生に問い合わせた結果、平成15年1月にお亡くなりになっていたことが分かった。謹んでご冥福をお祈りしたい。
(平成26年6月19日 記 教頭 原田尚昭)
『兵庫教育』表紙 梅谷博貞先生
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