千種高校のデータベース

千種高校歴史紹介シリーズ⑤ 「絵画」

解説

 3月末に、玄関の書を紹介してから随分と時間が経過いたしましたが、今日は歴史紹介シリーズの第5回目として、本校に縁(ゆかり)の深い絵画を2つ紹介します。

① 「舟溜り」(福岡久蔵先生 作)
 本校の玄関に足を踏み入れると、まず目につくのは前回紹介した堀井隆水先生の書ではあるのですが、左に目を移すと少し薄暗い玄関の中で水色による表現が印象深い絵があります。これは、現在も山崎町にお住まいで、いわゆる山崎画壇の重鎮、筆頭であられる福岡久蔵(ふくおか きゅうぞう)先生によって描かれた「舟溜り(ふなだまり)」という作品です。

                          

 この絵についての解説を当時の育友会報「敷草」の中から拾ってみましょう。


             卒 業 記 念 に 絵 画 を 寄 贈

 

  第13回卒業生が、卒業記念に80号(約1.6m× 1.3m)の絵画を寄贈してくれました。

  画家は山崎町にお住まいの福岡先生で、作品は東京の美術展で入選された「舟溜り(ふなだまり)」です。本館玄関に掲示して、長く鑑賞させてもらいます。
               作 者 の こ と ば

 

  宍粟の山中で育ったせいでしょうか、私は海や舟を見ると心が晴れる思いがするのです。それででしょうか、私の絵は海や舟をテーマとしたものが殆どです。

  この80号の油絵も揖保川の河口近くの舟溜りを描いたものです。私がこの場所をテーマとして絵を描き始めてから、かれこれ30年近くになります。当時は木製の小さな海苔舟がひっそりとたたずみ、静かで落ち着いた雰囲気がありました。しかし、今では舟もプラスチック製でモーターを付け、うなりを上げて走ります。なんとなく周辺の風景とそぐわないようになってきました。                                          
                   示現会会員 福 岡 久 蔵
                      (「
敷草」第20号 昭和63年2月25日発行)

 福岡先生は、山崎高校の第5回生。元は中学校の数学の先生で、山崎西中学校の校長をお務めになってご退職になりました。教師時代から絵をよく描かれ、美術も担当されることが多かったのですが、ご退職後その画業たるや尚いっそう盛んとなり、齢(よわい)78となられる今も非常にお元気で、山崎画壇を率いておられます。
 毎年5月の連休時期に、「ターンアート展」と称する美術展を20数名の方々と共に開いておられ、今年も5月3日から5日まで山崎町の宍粟防災センター4・5階で開催されますので、是非行ってご覧になり、先生の今なお瑞々しい(みずみずしい)画風に触れてみてください。


②「三室山」(児島格二先生 作)
 もう一つ紹介しておきたい絵が、本校の応接室に掲げられています。「三室山」という題は元々そのように名付けてあるからではなく、この絵の中心に描かれているが故に、そのように呼ばせていただいています。まずは絵をご覧ください。


         

 千種をよくご存知の方ならばこの絵を見れば、「ああ、七野(ひつの)のあたりからの風景だな。」とすぐにおわかりになると思います。右手の山が「城山」で、その名の通り中世には「千草城」があり、今ではその頂上に「五社神社」があります。中央から左手にかけて「笛石山」があり、さらにその先は「後山」へと連なっています。
  真ん中の奥に白銀をたたえてそびえている山が、我が校歌にも「緑すがしき 山脈(やまなみ)の 極みに高し 三室山 厳しきすがた 仰ぎつつ…」と唄われている「三室山」です。三室は「御室(みむろ)」につながり、いわば「神のおわします山」という意味を持っています。この絵を描かれた児島先生も、日々その凜(りん)とした姿に接しながら信仰心にも近いものを育んでいかれたのではないかと思います。 
 児島格二(こじま かくじ)先生は赤穂の方で、元々は英語の先生でした。本校では、昭和52年4月から56年3月までの4年間教頭先生として、初代吉田校長及び2代池戸校長を支えておられた方です。絵画や文学に造詣(ぞうけい)が深く、また、よく茶道部の活動に参加されてお茶をたしなんでおられた雅(みやび)な方であったと、現在も本校がお世話になっている茶華道講師の小原千鶴子先生がおっしゃっています。
 児島先生は、昭和60年4月から62年3月まで山崎高校の第23代校長を務められました。その間、兵庫県高等学校教育研究会英語部会の西播磨支部長を務められ、昭和61年度に英語スピーチコンテスト県大会を実施するにあたり、西播磨支部予選を姫路YMCAが行っていたスピーチ大会に合流させて行うという英断を下していただいたのが、実に懐かしく思い出され、スピーチコンテストも今に至っています。非常に温和なジェントルマン。その表情に接すると誰もがほっとする、そんな方でした。

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千種高校歴史紹介シリーズ① 石碑「自主敬愛の道」

解説

学校にはそれぞれの歴史があり、卒業生や地域の方々が様々な願いを込めて校舎の内外に石碑や記念樹、そして書画扁額(しょがへんがく)等の品々を残されています。千種高校の中にも数多くの記念碑や書画等があり、これから折りにふれて不定期ではありますが、その幾つかを取り上げて紹介していきたいと思います。

その第一が、「自主敬愛の道」の石碑です。東門から学校に入って真っ先に目につくのがこの碑であり、今ではその後方にある中庭や特別教室棟の姿と共に千種高校の顔となっています。

 

 
この石碑が建てられた由来について、当時のPTA会報「敷草」(第18号:昭和62年2月25日発行)から拾ってみましょう。

 

 

 千種町ライオンズクラブ(会長塚崎篤人氏)は、昭和61年度のメイン事業として、千種高校へ記念碑を寄贈してくださいました。去る2月15日、会員の方々の奉仕作業で、中庭に建ててくださいました。2メートル余りの大きな石の中央に黒のみかげ石を配したりっぱなもので、3年生の在校中にと配慮してくださいました。卒業する3年生には、よい卒業の記念となりました。

 

 

 

  「自主敬愛の道」は、校歌の一節の「自主敬愛の道ゆかむ」のことばです。これからの社会は、ますます情報化、科学技術化がすすみます。これらの進歩によって、ふりまわされ、惑わされるのではなく、自ら判断し行動するためには主体性をもち、自主性を身につけることが大へん大事なことです。また、国際化もいっそうすすみ、人を敬愛する精神がより必要とされます。高齢化社会では異なる年代の人々が、ともに敬愛することが求められます。在学中には自主敬愛の道を求め、卒業後は自主敬愛の道を歩む、21世紀を迎えるにふさわしい碑文です。ライオンズクラブの皆様に心から感謝申し上げます。

 


上の写真1枚目(左端)の石碑右下部分を見てください。今では周りの木が少し大きくなって見えにくいのですが、黒い小さな石が見えるでしょう。そこに「千種町ライオンズクラブ」から贈られたということと、この碑文を書かれた、つまり揮毫(きごう)されたのは本校の第4代校長・上山勝先生だということが記してあります。先生によれば、信州へのスキー修学旅行から帰って来られたその晩に「校長さん書いてくれ」と頼まれて必死になって書いた、と笑いながらおっしゃっています。

なお、校歌2番の「自主敬愛の道ゆかむ」ですが、これは作詞者の松井利男先生(姫路商業高校初代校長、元兵庫県教育次長、兵庫県同和教育運動の父)が最も大事にされていた言葉で、同じく先生が作詞をされた姫路商業高校の校歌の1番に「自主の道」、3番に「敬愛の誓ひ」があります。千種高校(当時は千種分校)の校歌が制定されたのは昭和38年4月1日。姫路商業高校は同年11月25日です。松井先生と作曲者の秋月先生は西播磨で数多くの小中学校の校歌を作られていますが、高校は兵庫県内で2校だけです。両校の校歌に相通ずる松井先生の想いを大事にして、この校歌を歌い継いでいきましょう。

それから最後にもう一点、今では東門から見える位置に立っているこの石碑は、建立(こんりゅう)当時、中庭の藤棚の北側に西を向いて建てられていました。平成4年に中庭の整備工事が行われた時に、今の位置に東向きに移されたものだということを付け加えておきましょう。



 



 

 

 

 

 


 

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千種高校歴史紹介シリーズ③ 校訓額「自立・信愛」

解説

千種高校の校訓「自立・信愛」については、制定年月日やその意味するところ、そして本館西側に鎮座する校訓碑の由来について前回紹介をさせていただきました。如何なる学校であれ、小中高の別を問わず、その学校の校訓を記した校訓碑や校訓額は必ずあるものであり、特に珍しい話でもないのですが、千種高校ほど多くの校訓額を掲げている学校は他に例を見ないと思います。

まずはそのすべてをご覧ください。


校長室  林 正男 先生 書


職員室  林 正男 先生 書


会議室  山部 一之 先生 書


体育館  山部 一之 先生 原書(彫刻版)


応接室  林 正男 先生 書?

本校には5つの校訓額があり、それぞれの場所で「自立」と「信愛」が、生きる上で非常に大事であることを訴えかけてくれています。我々教職員も、職員室で日々この校訓額を眺めているわけですが、自分たちがこの校訓の意味を忘れてしまっていないか、常に問い続けたいものであります。

さて、「林正男(はやし まさお) 先生」ですが、千種生まれの方なら誰でもご存知の有名な方であるようで、昭和50年1月から55年3月まで千種中学校の校長先生をされていました。また、それ以前に千種東小学校(平成22年度末閉校)の校長であられた時に、千種に昔あった「チャンチャコ踊り」を復元された方でもあります。昭和52年、校長として千種中学校の当時の教師集団を率いて出版された教育実践集「よろこびそだつ」は目を見張るような名著であり、今読んでも新しい知見に満ちたものとなっています。元々は、国語や書道の先生であられたようで、千種町内でも先生の号である「柳生」の入った扁額をよく見かけます。千種羊羹(ようかん)で有名な「塚崎末廣堂」様のお店にある「羹羊練(ねりようかん)」の額。旅館「瀧長」様の広間に掲げてある「室満気留」(りゅうきしつにみつ:この地に留まって旅の疲れを癒やそうという空気がこの部屋には満ち満ちている)を始めとする書画の類など、見かけられた方も多いのではと思います。応接室の扁額には号(名前)が入っていないので誰の作か不明なのですが、書体から林先生ではなかろうかという推測をしています。この作品だけ文字が左から書かれており、他の作品はすべて右から書かれています。いずれの作品もいつごろ書かれたものか現在のところわかっていません。数年前に、先生はお亡くなりになったとのことで、そのお声を聞くことができないのが残念です。

次に、「山部一之(やまべ かずゆき) 先生」は、本校で昭和48年から平成14年まで29年間書道を教えておられた方で、現在も山崎町元山崎のご自宅で「山部一翠(いっすい)書道教室」を開いておられます。山崎高校六回生で現在77歳、喜寿のお年を迎えておいでです。会議室の扁額には、(上の写真では画素数を落としているため見ずらいですが)校訓の横に「庚申春 一翠 書」とあります。「一翠」は先生の号で、「庚申春(こうしん[かのえさる] はる)」とは「昭和55年春」のことですが、本校の校訓「自立・信愛」が制定されたされたのが「昭和55年2月25日」でありますので、この山部先生の書がその直後に書かれたものであるということで、最も古いものであるということがわかります。電話で先生にその時のことを伺うと、「学校で校訓を決められて、その後すぐに書いてくれと頼まれ書きました。校訓の意味するところが生徒の皆さんに伝わればと願っています。」とのことでした。先生は、山崎高校、伊和高校、山崎東中学校の校歌額を書いておられ、地元山崎を中心に各所で作品を残されています。なお、体育館の校訓額は、平成11年に第24回卒業生の方々が卒業記念品として贈られたものなのですが、これは山部先生が直接書かれたものではなくて、会議室の書を原版として写し、文字の部分を彫ってそこに墨を塗って作製されたものです。ここには、校訓以外に「一翠 書」とはありますが、「庚申春」や落款(印鑑)は省かれています。

いずれに致しましても、学校内の各所に校訓額がこれだけ多数あり、いつどこにあっても私達を見守ってくれているということの意味を噛みしめつつ、日々の教育実践に打ち込んでまいりたいと思います。  

                                  

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春名文庫について

解説

本校図書室の窓側西端の書棚に、「春名文庫」と書かれた木製の掲示板が立てられています。実は、これはつい最近まで同じ図書室内の全く別の書棚の上に置かれていました。年を経る中でその意味も全く忘れ去られてしまっていたものなのですが、今回は「春名文庫」について、その記録を後世に遺すべく書き留めておきたいと思います。

左下の写真で、書棚の2段目と3段目に並んでいる「NHKブックス」が「春名文庫」です。ベージュの表紙と背中に青いマークが付いていますのでよくわかります。この書棚と離れて、図書室北側に置かれている棚にもNHKの大型本、「交通博物館」等が数冊ありますが、これも「春名文庫」の中に含まれています。形が大きいので、別の所にあるようです。

     

「春名文庫」とは、昭和40年から昭和59年1月まで本校に数学科教諭として奉職された、「春名俊秀先生」の名前からつけられています。千種町七野のご出身で千種分校1期生のお一人。そして分校時代から昭和50年の独立を経て、18年間にわたって本校で教鞭を執られ、昭和59年1月18日にご病気のため現職でお亡くなりになった方です。今から30年前のことですから、51歳でいらっしゃったと思われます。

    
  後列左端が春名先生(40周年記念誌より)       前列中央が先生(卒業アルバムから)
      

学校で一番厳しい先生-春名先生。そして一番優しい先生-春名先生。当時そのような声が生徒諸君の中にはあり、同僚の先生方にも広く慕われていた方であったようです。本校のPTA会報(当時は育友会報)「敷草」第12号(昭和59年2月25日発行)から、幾つか追悼文を紹介させていただきます。

     「教えて厳」-春名先生を悼む- 大 西 一 爾 (昭和56年~60年教頭)
 「教えて厳ならざるは、師としての怠りなり」。『言志四録』にあったと記憶している。なくなられた春名先生をおもうと、この言葉が浮かぶ。
 定時制時代の分校に学び、本校卒業生の大先輩であった先生は、教職を天職とし情熱を傾けられた。「社会に出て通用する人間に」、「知識や技能だけでなく、しつけが身についた人間に」。先生がいつも口にしておられた言葉である。本校創立の精神に生き、身をもって厳しく実践されていた姿を、いまも目前にするようなおもいである。

      - 生徒の弔辞より -   生徒会役員 大 北 康 代
 千種高校生の生徒を代表して、春名先生にお別れをいわせていただきます。
 春名先生が亡くなられたと聞いたとき、あんなにお元気そうだったのに、と信じられませんでした。
 お話をなさるのも苦しそうなのにマイクを使って私たちに熱心に教えて下さった先生の御苦労もよく理解せずに、時々、ふまじめな態度だったこともありました。今思うと、そんな自分たちが情けなくて、つらい気持ちでいっぱいです。
 何日も遅くまで補習をして下さったこと。進路について親身に相談にのって下さったこと。機会あるごとに、あの優しい笑顔で声をかけて下さったこと。だらしないこと、いいかげんなことをしていたら、こわい顔で厳しく注意して下さったこと……。今になってやっと、春名先生がどんなに真剣に、本気で、私たちのことを考えて下さったかが、はっきりとわかります。
 春名先生にもう二度と教えていただけないなんて信じられません。今にも「そこ、静かにせいよ。」、「ホックをきちんととめんか。」、「こらよう勉しよるか。」という先生のお声が聞こえてきそうな気がしてなりません。教えていただいた多くのこと、数々の思い出を心の糧にして、先生が望まれていたように、素直な誠実な人間になっていきたいと思います。
 春名先生、安らかにお眠り下さい。


1年後の昭和60年2月に発行された「敷草」第14号には、春名先生と同じ1期生の尾関豪一さん(千草)が一周忌の追悼文を寄せておられ、当時中学校の仮住まいで夜の授業をローソクの火を灯して受けたことや、授業が終わった後は教室の火鉢を囲んで話し込み、家に帰るのは夜中になったことなど、懐かしい思い出を綴っていらっしゃいます。

その同じ「敷草」の中に、「春名文庫」創設の紹介文が掲載されています。

 故春名俊秀先生のご家族から、千種高校のために、といただいた大切なお金で、本を購入させていただきました。
 NHKブックスの中から千種高校生に読んでもらいたい本を選び、「春名文庫」として図書室の一画に、コーナーを設けることになりました。
 生徒の皆さんは、故春名先生や御家族のおこころにかなうよう、大切に、十分に、活用して下さい。

今からほぼ一年前の平成25年1月18日、お昼頃に春名先生の奥様にお電話をさせていただいて、「敷草」の中でいろんな方が先生への想いを綴っていらっしゃることや、18年という本当に長い間千種高校がお世話になったことへの感謝の気持ちを伝えさせていただきました。昨年の夏にお亡くなりになった山本賢有先生もそうですが、分校時代から独立を果たす頃を含めて、長きにわたって千種高校を見守っていただいた多くの大先輩の先生方がおられてこそ今があるということを、私たちは忘れてはならないと思っています。(平成26年3月6日雪の日 記)

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『兵庫教育』所収・梅谷博貞先生論文

解説
『兵庫教育』(第28巻 第1号 通巻301号 昭和51年4月20日発行)所収
 
                   「僻地小規模校独立の道を求めて」
                                                 梅 谷 博 貞
 
1 独立を迎えて
 
 正面玄関のコンクリート壁に「千種分校」と埋めこまれていた鉄板文字を外して、「県立千種高等学校」の文字を入れた。
 「応接室」とあった標示板を「校長室」と書きかえて4月を迎えた。
 昭和50年度は特別の年であった。
 生徒も教師も父母も地域の人たちも念願し続けていた独立校になったのである。
 だから、学校経営の方針や重点を決めるときも「校長先生がお見えになってから…。」とすべて独立待ちとなっていた。
 「校務分掌をどうするかね」「校長先生の御意向を聞いてからにしよう。」
 「野球部を軟式から硬式に変えたいが…。」「校長先生が見えてから決定しよう。」という具合であった。
 それ故、新学期の出発はすべて遅れていた。
 しかし、独立校となったよろこびは大きなムードとなっていたのである。
 学校経営の重点
 悲願であった独立第一歩の年として、従来の気風を刷新し、独立校としての自覚にめざめ、地域社会の期待にこたえ、その使命と責任を果すため、校風を刷新し、基礎の確立につとめる……。
 これは、校長の手によって書かれた学校経営の重点の序文であるが、このときの校内の空気をよく反映している。
 学校経営の重点をまとめるため、各部から原案を出してもらったのであるが、「独立を契機として、職員、生徒一体となり……校風の樹立につとめる。」「独立校としての学校運営の円滑を期するため、校務分掌組織の事務範囲と目標を明確にし……。」などとあり、同和教育室からのものにも、「特に本年は独立の転機に立って、小規模独立校の特性を生かし……。」とあった。
 なにぶんにも全校生269名という小さな学校のことである。
 生徒や教師の気持ちがすぐにひびきあい敏感に反応しあうのである。
 生徒も「独立したんだから」という気負いと緊張のようなものを持っていた。
 教職員の間でも「独立校にふさわしいように……」という言葉を前置きにして討論することが多かった。
 町の人たちも「独立したというのに……」ということばで生徒の態度や学校を批判し、「さすがは独立しただけのことがあって…。」と評価するのだった。
 今、私たちは、「独立してどれだけ変ったのだ。」という評価の前に立たされている。
 
2 僻地小規模校の道を求めて
 
 生徒、教師、父母や地域の人たちが独立校になることを強く願ったのは、「分校」が持っているいろいろな矛盾に悩んでいたからである。とくに劣等感や被差別感を抱きやすい生徒たちにとっては切実なものであった。
 その念願が達成されて「独立校」になったのであるが、僻地小規模校という事実は少しも変っていなかった。
 「みどりのふる里」千種の山野は美しいが、そこは産業にも文化にも恵まれていない土地であり、生徒の家庭は貧しく、人口の減少が続いている。
 学校の施設、設備は不十分であり、予算は少ない。
 寒冷地であり、交通が不便で、県立の独立校として「僻地手当」のつくただ一つの学校でもある。
 僻地小規模校としての矛盾は、独立校となってもやはり残っているのだった。
 しかし、小規模校は欠陥だけを持っているのだろうか――
 昭和50年度研究テーマとして私たちは、「僻地小規模独立校の特性をどのように生かしていくか」と、ただ一行だけ書いている。
 しかし、これは私たちがこの一年間追い求めたテーマであるのだ。
 「生徒に対して甘すぎるのではないのか。」という自戒のことばがよくいわれている。
 放課後になると、職員室は生徒たちでいっぱいになることがある。
 職員室のストーブが生徒たちに占拠されてしまうこともしばしばである。
 英語の教師を囲んで海外文通の話題に花をさかせている生徒があり、現国の若い教師のまわりでは生徒が雑談している。
 古典の教師は毎日数名ずつを呼んで小テストをやっている。
 その前の若い数学教師のところには数人の生徒が質問に来て、いっしょに問題を解いているが、ときどき「先生ダメダー」といって教師の頭をつかんでゆすったり、肩をたたいたりもする。
 生徒と教師が人間的につながり、「落ちこぼさない教育」のためにはもってこいの条件を持っているのである。
 一人の生徒の母親が病気をしてもすぐ職員室の話題になり、一人の生徒が怪我をしたと聞くと全職員が総立ちになる。
 たまたま一人の生徒が授業中、こっそり弁当箱をあけようとしたことがあった。すぐ職員室の話題になり、次から次へと職員がその生徒に説教を試みたので、「教師全員が私を弾圧している。」と反撥させたこともあった。
 いいにしろ、悪いにしろ、ひとりひとりの生徒や教師の行動がすぐ全体にひびくのである。
 ある教師が、寝たきりの少女の詩を紹介した。数人の生徒は早速その少女に慰めの手紙を書き文通をつづることになった。
 又、教師がひと言いえば、下校時に、便所の下駄はきれいにそろえられているのである。
 この小規模校の特性を、どのように体系化し、計画化して行くかが私たちの課題である。
 
3 点検と反省からの出発
 
 3学期に入って、教師はレポート書きに忙しかった。
 自分の所属した校務について、学級経営、クラブ指導、教科指導について、この一年間に実践したことを記録し、そのなかで出合った悩みや問題点、反省点を書いてプリントした。
膨大な実践記録集が出来上がったのである。
 これをもとに実践点検の職員会をすかいにわたって続行した。
 なにぶんにも少人数の職員会である。
 「生徒Kの指導は、あのやり方ではよくなかったのではないか。」「2組のTとOの恋愛問題はどんな指導をするべきなのか。」と具体的である。
 「われわれ教師が、学校経営の重点という目標に向って進むように、学級経営にも目標を明確にすべきではなかったろうか。」との意見もあった。
 小規模、少人数、人間的なつながりの深さ。だからこそ「すぐ分り合ってしまう」という甘さをどのように克服すべきなのか。
 現在、私たちは昭和51年度の校務分掌の作成にかかっている。
 再び学校経営の重点を設定する作業に取り組む季節になった。
 今の私たちの合言葉は「50年度の反省に立って」である。
 もちろん、私たちは反省ばかりしているわけではない。同和教育でも、教科指導、生徒指導についても、いろいろと実践し成果を挙げたという自信も持っている。
 しかし反省点や問題点は余りにも多いのである。
 現在の教育界がかかえている問題は大きくて複雑である。私たちの力の及ばないものが多い。
 51年度も又、方針や目標を立て、そして50年度と同じように達成できないであろうし、きびしい反省会をもつことであろう。
                                              (県立千種高等学校・教頭)
 
 筆者である梅谷博貞先生は、昭和44年4月から昭和50年3月まで分校長、昭和50年4月から昭和52年3月まで、初代吉田太郎校長のもとで教頭を務められた方である。上記論文は、『学校開設40周年記念誌』や『50周年記念誌』以外に、本校が独立校となった頃の様子を今に伝えてくれる貴重な証言記録である。約40年前に手に入れた冊子を捨てずに持っていたのであるが、去る平成26年6月15日(日)、同冊子を久々に手にしてぱらぱらとめくっていて「発見した」のがこの論文である。独立当時の喜びと共に、先生方の苦悩が率直に語られていて興味深い。それでも当時の生徒数は269名。現在は100名である。梅谷先生が何度も用いておられる「小規模独立校」の現状は、当時にも増して厳しいものがある。私たちは先生の言葉を何度も読み返し、時を超えてその問題意識を共有しつつ「千種高校」存続の道を常に模索していかなければならない。
 なお、梅谷先生は、後に「県立温泉高校(既に廃校)」の校長となられており、前述の『40周年記念誌』(昭和63年11月発行)には「前県立温泉高校長」として独立当時の回顧録を寄せておられる。県立浜坂高校や第4代校長上山勝先生に問い合わせた結果、平成15年1月にお亡くなりになっていたことが分かった。謹んでご冥福をお祈りしたい。
                                     (平成26年6月19日 記 教頭 原田尚昭)
 
       

   『兵庫教育』表紙         梅谷博貞先生


本稿の参考資料として、『兵庫教育』所収論文と『40周年記念誌』の各先生方回顧録(吉田校長、樫本校長、梅谷先生)をPDFファイルにて掲載しておく。

梅谷先生論文.pdf  初代吉田校長回顧録.pdf  3代樫本校長回顧録.pdf  梅谷先生回顧録.pdf

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