千種高等学校の周辺案内 ・ 地域情報

地域紹介

名称 中ノ宮神社
紹介 町内北部、河内(こうち)の出合橋を過ぎて少し行くと、左手に下部3分の1程が道に隠れてしまっている鳥居が目に入ってきます。その先にあるのが中ノ宮神社(なかのみやじんじゃ)で、境内に足を踏み入れると、社殿の左右に大ケヤキと大スギがそびえて立っており、社叢の古さを物語っています。大ケヤキの根元には丸こい「力石」も置かれていて、力自慢を競い合った往時の賑わいが偲ばれる空間となっています。
名称 二宮神社
紹介 国道429号線に沿って岩野邊道を進んで行くと、右手に風格のある神社が目に入ってきます。二宮神社(にのみやじんじゃ)で、境内右手には農村歌舞伎舞台の「神楽殿」があり、本殿には平家物語などに取材した見事な絵馬が幾つか掲げられています。また、境内にある「めおとイチョウ」(推定樹齢90年)は、雌雄異株ではなく同一株から分枝した一方の株が結実するもので、非常に珍しいものとなっています。
名称 河呂大森神社の農村歌舞伎舞台
紹介 昭和45年に兵庫県指定文化財とされた、「農村歌舞伎舞台」は、町内に現存する3つの中でも特に精巧な作りをしており、間口9.95m、奥行9.03m、床高0.93m、入母屋造で奈落を楽屋として活用する面白い構造となっています。舞台構えも立派なもので、皿廻式(さらまわししき)で回転面径7.06mを有し、これによって舞台廻しが巧みに行えるものとなっています。今でも秋祭りには地元の人たちによる劇(歌舞伎ではありませんが)が演じられていますので、是非お越しください。
名称 高羅鉄山跡
紹介 町内北部の河内(こうち)へ向かう途中、右手の田んぼの中に一体の石碑が立っています。これは、以前この辺りに千種のたたら製鉄所の一つ「高羅鉄山(こうらてつざん)」があったことを示すもので、今では一帯が水田となっているが故にわかりにくいのですが、昨年(平成25年)に鳥居政義先生によって行われた、対岸の墓石数調査により二百基にも上る数が確認され、相当大きなたたら集落があったと考えられています。
名称 三室山
紹介 千種高校のグラウンドからいつも見える山。夏には夏のたくましさ、冬には冬の厳しさと、春には春の、秋には秋の色合いが実に豊かで美しい山。三室は「御室」に通じ、言わば「神のおわします山」。標高1,358m、氷ノ山後山那岐山国定公園の一部をなし、兵庫県では氷ノ山に続く第2の高峰です。千種高校の校歌にも、「緑すがしき 山脈(やまなみ)の極みに高し 三室山 厳しき姿 仰ぎつつ …」と謳われています。私たちにとって父でもあり、母ともなってくれる山です。
名称 千草大森神社の虹
紹介 千種高校から見える大森神社の上には、よく虹が出ます。雨上がりの夕刻、2重の虹が森の上、植松山などに架かっていて、いつも心洗われる気持ちになります。そういえば、25年11月13日にプロレスラーの乱丸さんに来ていただいた時も、千種にきれいな虹が出ていて、とても感激されていました。自然のちょっとした変化が嬉しいですね。
名称 日名倉山(三の丸)
紹介 千種高校の背景に見えている山が日名倉山です。頂上部分が三層となっており、不思議なことに高い方から「三の丸」「二の丸」「一の丸」と呼ばれています。千種高校の校歌3番にも、「ああ、秀麗の三の丸…」と詠われています。千種側の麓には「日名倉神社」があり、三の丸(頂上)にも小さな祠があることからもわかるとおり、地元の人たちにとって信仰の山となっています。標高1,345m、岡山側からは富士山のように見えるので「美作富士」と呼ばれています。三の丸頂上の写真もご覧ください。
名称 栄々人来広場
紹介 元「大通り広場」と呼ばれていましたが、平成24年春「栄々人来(ええとこ)広場」と命名され、千種町民に広く親しまれています。春は「ちくさ桜まつり」、秋の「ちくさふれあいフェスタ」などのイベントでは、舞台での演目を見ながら、町のグルメ屋台の味を楽しむことのできる祭の中心基地となっています。また、12月に入るとすばらしいイルミネーションに彩られ、2月頃まで地元の皆さんの冬の憩いの場ともなっています。
名称 商店街駐車場のほのぼの壁画
紹介 千種市民局の隣、商店街の駐車場にほのぼのとした壁画があるのを御存知でしょうか。これは、平成16年の秋に当時の千種高校生(1・2年生美術選択者)が商店街の皆さんの要望を受けてデザインを考えて描いたものです。テーマは「わたしたちのふるさと」。自然豊かな千種の山で鳥や動物たちと一緒に遊ぶ子供たちの姿が、10年を経た今もなお鮮やかな色合いで私たちの心を和ませてくれています。
名称 河呂大森遺跡(弥生住居跡)
紹介 千種中学校の玄関前に写真のような看板が立っています。以前ここで多数の土器片が出土したことがあり、町民グラウンドの造成工事の折りに発掘調査をした結果、約25戸の弥生時代の住居が見つかりました。約3.5m~4.0m四方の大きさで、内部には水を貯めるための穴や焚火をした跡が残っていたとのことです。この玄関前は最も重要な部分であり、埋め戻して前庭にし、身近な歴史教材として今でも語り継がれています。