千種高等学校の周辺案内 ・ 地域情報

地域紹介

名称 ちくさ高原ゆり園
紹介 平成25年夏に開園した「ゆり園」は、冬場だけではなく夏にも観光客を呼び込もうと、スキー場のゲレンデに作られた千種の新名所。「奥播州の高原に咲く150万輪のゆり」の呼び名そのままに咲き誇る見渡す限りの「ゆりの絨毯」とそのかぐわしき香りを楽しみにいらしてください。
名称 ちくさ高原スキー場
紹介 変化に富んだ5つのコース、オートゲートシステムを 採用し待ち時間を短縮。7色の光線でライティングされたナイター設備で夜のスキーも楽しめ、敷地内には宿泊施設や温泉施設がありスキーヤーの疲れた体を 癒してくれます。 千種高校では、アクティブコースのスキー授業を始め、スキー部の活動や千種小学校のスキー教室等で利用させていただくことが多く、千種ならではの特色ある教育活動を行っています。
名称 クリンソウ群生地
紹介 千種町北部の「ちくさ高原」と「天児屋鉄山跡」に、全国でも有数のクリンソウ(九輪草)の群生地があります。絶滅危惧種にも挙げられていますが、千種の土壌によく合うということと、シカなどによる食害からも免れて5月から6月にかけて見事な花を咲かせています。地元では「クリンソウを守る会」を中心に鑑賞順路を整備し、その保護に力を注いでいます。
名称 ミズバショウ植物園
紹介 正式には、「ちくさ高原湿性植物園」と呼ばれ、4月中旬頃に咲く可愛らしい数々のミズバショウが毎年千種町に春が来たことを知らせてくれています。雪解け水のさらさらと流れる音色と共に、ミズバショウ(水芭蕉)の凛とした姿と純白の衣が見事なリズムを奏でてくれる、喜びの季節となっています。
名称 一里堂
紹介 「道の駅ちくさ」を過ぎて下河野(けごの)の村の入口に立つ山里千種のシンボル。間口4.1m、奥行4.1mの萱葺宝形造(かやぶきほうぎょうづくり)。旅人の休憩場所として親しまれていました。中には5体のお地蔵様がおられ、旅の無事を祈る場でもありました。昔は、一里堂の南にある「塩地峠」を越えて、千種からは「千草鉄」や炭が、千種へは塩・醤油・酒・油などが運ばれていたとのことです。
名称 三室山
紹介 千種高校のグラウンドからいつも見える山。夏には夏のたくましさ、冬には冬の厳しさと、春には春の、秋には秋の色合いが実に豊かで美しい山。三室は「御室」に通じ、言わば「神のおわします山」。標高1,358m、氷ノ山後山那岐山国定公園の一部をなし、兵庫県では氷ノ山に続く第2の高峰です。千種高校の校歌にも、「緑すがしき 山脈(やまなみ)の極みに高し 三室山 厳しき姿 仰ぎつつ …」と謳われています。私たちにとって父でもあり、母ともなってくれる山です。
名称 中ノ宮神社
紹介 町内北部、河内(こうち)の出合橋を過ぎて少し行くと、左手に下部3分の1程が道に隠れてしまっている鳥居が目に入ってきます。その先にあるのが中ノ宮神社(なかのみやじんじゃ)で、境内に足を踏み入れると、社殿の左右に大ケヤキと大スギがそびえて立っており、社叢の古さを物語っています。大ケヤキの根元には丸こい「力石」も置かれていて、力自慢を競い合った往時の賑わいが偲ばれる空間となっています。
名称 二宮神社
紹介 国道429号線に沿って岩野邊道を進んで行くと、右手に風格のある神社が目に入ってきます。二宮神社(にのみやじんじゃ)で、境内右手には農村歌舞伎舞台の「神楽殿」があり、本殿には平家物語などに取材した見事な絵馬が幾つか掲げられています。また、境内にある「めおとイチョウ」(推定樹齢90年)は、雌雄異株ではなく同一株から分枝した一方の株が結実するもので、非常に珍しいものとなっています。
名称 八重垣神社の農村歌舞伎舞台
紹介 千種町内には、河呂大森神社(河呂)、二宮神社(岩野邊)、そして八重垣神社(下河野)に「農村歌舞伎舞台」が今でも残っています。村人自身が演ずる「農村歌舞伎」は「地芝居」とも呼ばれ、娯楽の乏しい山あいの農村では貴重な民俗芸能でした。他の神社の舞台は通常閉じられていますが、ここ八重垣神社だけは開けっ放しでいつでも中の作りを見ることができ、床に「皿廻し式」の回り舞台の切れ込みがあるのがわかります。また、この神社の社叢は杉や檜ではなく、柏や椿、榊などの照葉樹が多く、大昔から神の宿る木に囲まれた神社となっています。
名称 千草カントリークラブ
紹介 全英オープン優勝5回を誇る、ピーター・トムソン設計による理想のゴルフコースです。クラブハウスからは千種の名峰の数々を望むことができ、青空とグリーンの色合い、季節ごとに変化する木々の風情を楽しみながら巡るコースは正に絶品。千種高校の生徒たちは授業でクラブ活動で活用させていただいており、将来はプロの誕生を!と願っています。
名称 千草大森神社
紹介 町内「千草」の最北「八幕山」の麓、「大森の段」と呼ばれる地に鎮座まします神社で、「敷草村」の名の由来である「草を敷いて神の座を設けたところ」から、「大森大明神」とも言われていました。元は河呂の大森神社と同一社(河呂字明神野)であったのですが、参詣の便を計って現在地に移されたと「千種村是」は伝えています。祀られているのは「大山祇神(おおやまつみのかみ)」で、言わば日本全国の山を管理する総責任者です。境内には、子供の守り神である「若宮神社」もあります。千種高校をいつも見守っていて下さる一番身近なお社です。
名称 千草大森神社の虹
紹介 千種高校から見える大森神社の上には、よく虹が出ます。雨上がりの夕刻、2重の虹が森の上、植松山などに架かっていて、いつも心洗われる気持ちになります。そういえば、25年11月13日にプロレスラーの乱丸さんに来ていただいた時も、千種にきれいな虹が出ていて、とても感激されていました。自然のちょっとした変化が嬉しいですね。
名称 商店街駐車場のほのぼの壁画
紹介 千種市民局の隣、商店街の駐車場にほのぼのとした壁画があるのを御存知でしょうか。これは、平成16年の秋に当時の千種高校生(1・2年生美術選択者)が商店街の皆さんの要望を受けてデザインを考えて描いたものです。テーマは「わたしたちのふるさと」。自然豊かな千種の山で鳥や動物たちと一緒に遊ぶ子供たちの姿が、10年を経た今もなお鮮やかな色合いで私たちの心を和ませてくれています。
名称 天児屋たたら公園(鉄山跡)
紹介 千種町内には、古代より「たたら製鉄」を営んできた「鉄山(製鉄所跡)」が幾つかありますが、町内北部西河内(にしごうち)にある「天児屋(てんごや)鉄山」が規模・整備状況共に最も見ごたえがあります。千年以上の歴史を持ち、かつてここに製鉄所などの各施設があり、たたら職人やその家族約4百人が暮らしていました。向かい側に「たたらの里学習館」があり、「たたら製鉄」の歴史などについて学ぶことができます。
名称 宇野のお塚さん
紹介 天正8年(1580年)、三木城攻めに続いて行われた秀吉による播磨平定のクライマックス、山崎の長水城攻めによって落とされた城主宇野政頼主従が逃げ落ちたのが、現在千種の大森神社のあるあたりでした。折からの増水で千種川を渡ることができず、対岸の笛石山山上の猫石から発せられた味方の笛の合図も敵方のものと思い込み、もはやこれまでと諦めて百名弱の主従がここで自刃した、と言われています。場所は、杉の子保育園前に階段があり、そこを上ったところです。
名称 志引峠
紹介 志引峠は兵庫県と岡山県の県境にある峠で、千種町からは日名倉山などを横切って行くことが出来ます。山頂を越えると岡山県美作町になります。山々に囲まれていますが、広大な景色が広がるポイントがいくつもあり、とても心癒される場所です。唯、非常に残念なことに、この峠は不法投棄の名所となっており、谷底には大量の粗大ゴミがあったことから、平成21年から中高連携で「環境美化活動」に取り組み、毎年6月初旬に大量のゴミを谷底から引き上げています。
名称 教信上人墓所
紹介 親鸞上人や一編上人が敬慕してやまなかった念佛行者の模範的存在。現在の加古川市野口町にある教信寺を拠点として念佛の普及活動をされていましたが、西国に来られた帰途、この千種の地で亡くなられ、葬られたのが現在の商店街黒土の地にある墓所となっています。伝えられるところでは、頭部は加古川に持ち帰られ、胴体がこの地に葬られて、その後西蓮寺が建てられたとのことです。毎年4月には「千種念佛」が行われ、昔は3千人を超える参拝者で賑わっていました。
名称 日名倉山(三の丸)
紹介 千種高校の背景に見えている山が日名倉山です。頂上部分が三層となっており、不思議なことに高い方から「三の丸」「二の丸」「一の丸」と呼ばれています。千種高校の校歌3番にも、「ああ、秀麗の三の丸…」と詠われています。千種側の麓には「日名倉神社」があり、三の丸(頂上)にも小さな祠があることからもわかるとおり、地元の人たちにとって信仰の山となっています。標高1,345m、岡山側からは富士山のように見えるので「美作富士」と呼ばれています。三の丸頂上の写真もご覧ください。
名称 栄々人来広場
紹介 元「大通り広場」と呼ばれていましたが、平成24年春「栄々人来(ええとこ)広場」と命名され、千種町民に広く親しまれています。春は「ちくさ桜まつり」、秋の「ちくさふれあいフェスタ」などのイベントでは、舞台での演目を見ながら、町のグルメ屋台の味を楽しむことのできる祭の中心基地となっています。また、12月に入るとすばらしいイルミネーションに彩られ、2月頃まで地元の皆さんの冬の憩いの場ともなっています。
名称 河呂大森神社の農村歌舞伎舞台
紹介 昭和45年に兵庫県指定文化財とされた、「農村歌舞伎舞台」は、町内に現存する3つの中でも特に精巧な作りをしており、間口9.95m、奥行9.03m、床高0.93m、入母屋造で奈落を楽屋として活用する面白い構造となっています。舞台構えも立派なもので、皿廻式(さらまわししき)で回転面径7.06mを有し、これによって舞台廻しが巧みに行えるものとなっています。今でも秋祭りには地元の人たちによる劇(歌舞伎ではありませんが)が演じられていますので、是非お越しください。
名称 河呂大森遺跡(弥生住居跡)
紹介 千種中学校の玄関前に写真のような看板が立っています。以前ここで多数の土器片が出土したことがあり、町民グラウンドの造成工事の折りに発掘調査をした結果、約25戸の弥生時代の住居が見つかりました。約3.5m~4.0m四方の大きさで、内部には水を貯めるための穴や焚火をした跡が残っていたとのことです。この玄関前は最も重要な部分であり、埋め戻して前庭にし、身近な歴史教材として今でも語り継がれています。
名称 笛石山(千種富士)
紹介 標高894.6m、河呂や岩野邊方面から見るとなだらかな富士山型をした山。頂上近くに木の生えていない三角形の斜面があり、そこにまるでボタンのようにポツンと突き出た岩があります。「猫石」と呼ばれているのですが、その昔、秀吉に攻められた長水城主宇野政頼主従が逃げ落ちるとき、千種川対岸山上の岩の上から吹かれた笛の音を、実は味方からの合図であったのに敵と思い込み自刃したという悲しい話が残っています。その時からこの山は「笛石山」と呼ばれているのですが、山に登ってこの岩の左下から見ると確かに一匹の大きな猫が座っているように見えます。一度登ってみてください。(「猫石」の写真は、右下の「詳細を表示」をクリックしてください)
名称 西河内のお塚さん
紹介 西河内村に入るとすぐに左手の田んぼの中に無銘の碑と2基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が目に入ってきます。村の人は、これを「お塚さん」と呼び、鍋ヶ森神社創建伝説の佐藤盛唯の墓であるとか、平氏の落人の墓でもあるとか伝えています。いずれにしても、今でも村人によって花が手向けられ、この村の古くからの言い伝えとともに暮らしが成り立っているところに興味がひかれます。
名称 金屋子神降臨の地
紹介 千種町から波賀町に抜ける国道429号線沿い、岩野邊(いわのべ)地区を東へ進んだ辺りに写真のような石碑が建てられています。この近くには、かつてのたたら製鉄所跡「荒尾鉄山」があるのですが、たたらの守護神である「金屋子神(かなやごのかみ)」が神代の時代に降臨したのが、「岩鍋」(=岩野邊)の地であったと伝えられています。金屋子神は女性の神様で、ここ千種に降臨した後、白鷺の背に乗って奥出雲に向かい、そこで「たたら製鉄」の技法を伝授したと言われています。
名称 高羅鉄山跡
紹介 町内北部の河内(こうち)へ向かう途中、右手の田んぼの中に一体の石碑が立っています。これは、以前この辺りに千種のたたら製鉄所の一つ「高羅鉄山(こうらてつざん)」があったことを示すもので、今では一帯が水田となっているが故にわかりにくいのですが、昨年(平成25年)に鳥居政義先生によって行われた、対岸の墓石数調査により二百基にも上る数が確認され、相当大きなたたら集落があったと考えられています。