千種高校のデータベース

兵庫県立千種高等学校校歌の作詞者と作曲者について

解説

 

 

本校の校歌は、昭和3841日、「千種分校の歌」として制定されました。作詞:松井利男先生、作曲:秋月直胤先生という、当時の校歌制作者として有名なお二人によって作られたものです。

 


【松井利男(まつい としお)先生】

 

松井先生は、明治43年(1910年)4月に現在の赤穂市有年の牟礼でお生まれになり、県立農学校(現県立農業高校)に学び、昭和7年に早稲田大学高等師範部国語漢文科をご卒業になりました。新浜村立新浜尋常高等小学校(現在の赤穂市立御崎小学校)を皮切りに、県立赤穂高等女学校、県立第二神戸中学校・県立兵庫高等学校、県立姫路東高等学校の国語科教諭として活躍をされています。その後、県教育委員会指導主事、県立姫路西高等学校教頭、県立教育研修所次長を歴任され、昭和36年に姫路商業高等学校の初代校長となられました(昭和364月~昭和403月)。従って、本校の校歌を作っていただいた時には姫路商業高校の校長先生でいらっしゃいました。その後、県教委教職員課長等を経て昭和43年に教育次長となられ、本県の教育行政に辣腕を振るわれました。昭和4549日に兵庫県民会館で行われた「高校生の社会意識」と題するご講演は、当時「日本講演会」が発行した『日本講演:日本一の名講演集』(同年511日号)という冊子の中に収められており、今でも読むことができます。また、同年113日、先生の郷里に近い赤穂郡上郡町(上郡町役場前)に建立された大鳥圭介先生の銅像台座裏側に刻まれている碑文「顕彰のことば」を撰び、記されています。なお、若い頃から晩年に至るまで国語教育に関する著作が幾つかあり、『文法の指導計画:主として小学校における』(1955、光風出版)、遠藤嘉基氏との共著で『古典解釈文法』(1985、和泉書院)、『わたくしたちのことばと文法 口語篇~口語品詞編』(195253、文教出版)、『ことばと文法[1][3]』(1955、文教出版)等が挙げられます。

 

もう一点先生に関して特筆すべきは、その生涯を通じて同和問題に深く傾注された方であったということです。教育次長であると同時に、当時県庁内に設置された「同和教育指導室」(現在の人権教育課)の初代室長として大いなる指導力を発揮され、現在の同和教育立県「兵庫」の基礎固めとなる同和教育精神の確立、同和教育資料の編纂は勿論のこと、各界各層における同和問題学習会での指導助言やご講演は100回以上にも及んだということです。本校第3代校長の樫本玉男先生と第4代校長の上山勝先生は、当時同和教育行政或いは委員会活動等を通じて直接先生の謦咳に接し、薫陶を受け、兵庫県下各地の講演旅行に同行し、鍛えられ、「今の自分があるのは松井先生あったればこそ。」と強い尊崇の念を寄せておられます。正に兵庫県同和教育推進の羅針盤的存在でありました。
   
昭和463月をもって教育次長をご退職になった後も、兵同協会長や姫路学院女子短期大学副学長等の要職を歴任され、尚且つ複数の大学で教鞭を執っておられました。先生は、昭和622月に78歳でお亡くなりになったのですが、同年11月には元同僚・後輩及び教え子等が相集い、「松井利男記念論文集刊行会」の編で、『同和教育論 松井利男と兵庫県同和教育運動』(1987、草風館)という本が出版されています。


 

【秋月直胤(あきづき なおかず)先生】

 

秋月先生は、昭和264月から363月まで山崎高校で音楽の教諭をされていた方です。従って、千種分校でも教鞭を執っておられました。山崎高校の卒業生(現在50歳以上の方々)ならば、誰もが口ずさむことのできる名曲「山崎高校生徒会歌」(昭和27年、作詞:小倉悠丘・作曲:秋月直胤、分校歌制定まで約10年間千種分校でも歌っていた)の作曲をされた方でもあります。が、実は、秋月先生が山崎に来られたのはもう不惑の年を越えられてからのことであり、また、ご自身の来歴について多くを語る方ではありませんでしたので、それ以前のことを知る人は山崎にはほとんどおられません。

 

先生は岡山のご出身(漢学者のご家庭)で、上野の東京音楽学校(現在の東京芸術大学)声楽科を首席で卒業し、1年先輩には藤山一郎がいました。山田耕筰先生の推薦で歌謡界の花形「コロンビアレコード」に入り、戦前にはかなり人気のある歌手であられたのです。芸名「青山薫」。これは、当時第一級の詩人であった西条八十先生から頂いたものでした。同社には、淡谷のり子、伊藤久男、ミスコロンビアらがいて、後に有名になる霧島昇などは青山薫の付け人であったということです。青山薫時代の歌声は、YouTubeで一曲だけですが「輝く満州」という名で検索すれば聴くことができます。その後、レコード会社を離れてクラシック界に復帰し、特に山田耕筰先生が自作の歌曲を発表される際には、藤山一郎や二葉あき子らと共に、バリトン独唱者として必ず先生を出演させていたということです。大東亜戦争が勃発し、戦況が悪化する中で、戦中・戦後の数年間は郷里の岡山に疎開しておられましたが、昭和23年に大阪音楽大学から声楽部長・教授として招聘され、音楽教育に精を出されました。然し、その後如何なる理由でか大学を退き、新設音楽大学の設立計画に奔走するも成就せず、山崎高校に来られたようです。尚、奥様も共に山崎に来ておられましたが、元首相にして蔵相・高橋是清の姪でありました。

秋月先生は、山崎高校時代に何度か生徒の前で独唱され、単なる声楽家を遥かに超えた非常に精妙なる歌声で多くの聴衆を魅了されたというエピソードが幾つか残っています。山崎高校8回生(昭和31年卒)で元広島大学教授(ドイツ文学)の武田智孝氏(山崎町高下のご出身)はご自身のHP『ドイツ文学散歩』の中で、入学式の時に聞いた秋月先生の独唱による国歌「君が代」は、これが人の声であろうかと思うほどのすばらしい美声であったと書き、その後長年にわたって何度も本場のヨーロッパで数多くの方の歌曲を聞いたが、あの時秋月先生から受けた感動を超える歌声には未だ出逢ったことはないとも語っておられます。また、11回生(昭和34年卒)で高校1・2年次の担任が秋月先生であったという村上紘揚先生(宍粟市教育委員・元山崎高校長)は、文化祭でタキシードに蝶ネクタイという装いで壇上で独唱されていた姿が今でも脳裏に焼き付いているとおっしゃっています。普段の服装も非常にお洒落で、山崎の町ではよく目立つ方でもあったようです。
  山崎高校に約10年間おられて数多くの生徒を大阪音大へ進学させた後、昭和364月に新設の県立姫路商業高校(6月まで姫路西高内仮校舎)へ異動され、この時初代校長の松井先生と出会われて希代の校歌コンビが誕生するのです。姫路商業高校には、昭和443月定年退職までの8年間に加えて、昭和463月までの講師期間、計10年間お勤めになったのですが、その間姫路を舞台にして「播磨芸術文化運動」とでも言うべき動きの中心的存在として活躍され、姫路城昭和の大修理・修築記念事業で自作の「白鷺城賛歌」を上演され、姫路出身の小説家・椎名麟三氏作「姫山物語」のミュージカル作曲やオペラ「修禅寺物語」等を発表されています。また、昭和40年(1965年)に第3回姫路文化賞を受賞されてもいます。その当時の先生のご様子は、現在「姫路文学人会議(「文芸日女道」を刊行)」の主宰者である市川宏三氏の手になる『たゆらぎ山に鷺群れて』(北星社)の中に幾度となく登場し活写されており、市川先生に伺うと、「とにかく歌唱指導に卓越した方だった。また、歌詞を見ればメロディーが頭の中に閃き、ピアノからすぐに曲が生まれるという技は、如何なる作曲の名手とて決して真似のできないものであった。こんなに優れた才能をお持ちの方が何故中央(東京)で活躍されないのかと皆不思議に思っていた。」とのことでした。つまり、その当時姫路で秋月先生の指導を受けた方々は、先生が戦前コロンビアレコードの専属歌手であったなどということは全く聞いたことがなかったということです。姫路商業の後は、埼玉県にご子息が居られた為居を移され、昭和48年に埼玉県立川越高校の音楽講師に迎えられたりしながら関東で活動されていたということです。没せられたのは昭和63年(1988年)11月。生年が明治44年(1911年)ですので齢78歳、喜寿の翌年。

【校歌づくりの名コンビ】

 

 前述のように、松井先生と秋月先生は校歌づくりの名コンビでした。少し調べただけでも、姫路商業高校は当然としても、この西播磨一円で両先生の名を冠する校歌(小学校・中学校)が如何に多いことか。本当に驚くばかりです。詞と曲の面で分野は違えど互いの才能をよく見抜いたが故に響きあうところ大であったのではないかと察せられます。奇しくも両先生は生没年がほぼ同じであり、共に78年のご生涯。異なった分野で活躍しながらも、姫商を舞台に互いの人生を交差させながら校歌づくりにいそしんでおられたことは間違いありません。校歌というものは、正に創立当時の熱意や学校に対する地域の期待を一身に背負っているものです。松井先生の典雅なる詞と、秋月先生の溌剌颯爽としたリズミカルな曲が見事な調べとなって、この後100年経っても200年経ってもいついつまでも、それぞれの学び舎に集う若者たちに大いなる勇気と誇りを与え続けてくれるでありましょう。 
平成25 116日 記)

 

  松井利男 先生

  秋月直胤 先生



【千種分校生の校歌に対する想い】
 千種高校は昭和50年に独立を果たし、「兵庫県立千種高等学校」となるわけですが、それまでの分校時代に本校と分校の関係及び校歌の位置づけが如何なるものであったかがわかる貴重な証言が、育友会報「敷草」の中に残っています。


 
          「卒業式に千種分校の校歌を歌いたかった」                昭和42年度卒業生

  昔は入学式も卒業式も本校で行っていたので、山崎高校の校歌を歌わなければならないのですが、私達は習っていな
かったので歌えませんでした。千種分校の校歌は今の千種高校の校歌と同じです。式典などでは歌ったことはありませんが、音楽の時間に2、3
回歌いました。歌詞やメロディーはスーと出て来ます。思い出の曲みたいです。卒業式には歌えるといいなと思っています。生徒達が有意義で楽しい生活を送れますよう、先生方よろしくご指導お願いします。                                                   (「敷草」第35号:平成7720日発行)


  現在の校歌は、分校時代には「千種分校の歌」と呼ばれていました。制定された昭和38年の「千種分校学校要覧」には、当時本校及び分校で書道を教えておられた大岩祥峰先生が細筆で書かれた歌詞が残っています。なお、この匿名の文で「山崎高校の校歌」となっているのは「山崎高校生徒会歌」(作詞:小倉悠丘、作曲:秋月直胤)のことで、昭和54年に現在の校歌が制定されるまで生徒会歌が歌われていました。いずれに致しましても、当時の分校生の切なる想いがよくわかり、独立の喜びが如何に大きなものであったかが察せられます。 (平成25年3月10日 追記)

 



【資料:大鳥圭介先生「顕彰のことば」(松井利男先生撰)】

 上郡町役場前に大鳥圭介先生の銅像が立っています。ゆったりと流れる千種川を前にして、瞳は常に東方を見つめ、今でも天下国家の行く末に想いを馳せているかのようです。銅像台座の後方には「顕彰のことば」が刻んであり、この碑文こそが我が松井利男先生の撰び記されたものなのです。
   時に昭和45年11月3日、大鳥圭介先生顕彰会により建立される。


   
  
(撮影:平成25年3月9日)



大鳥圭介先生顕彰のことば(松井利男先生撰)

 
顕彰のことば

 

 松井利男撰 西本広書

 

明治100年を記念して

 

銅像を建立

 

昭和45113

 

大鳥圭介先生顕彰会

 

 

 

 正二位勲一等男爵大鳥圭介先生、諱は純彰 赤穂郡岩木の人 天保3(1832) 228日父直輔母節子の長子として生れる。幼にして頴悟稍長じて岡山藩閑谷黌に漢学を修める。      嘉永5(1852)家業の医をもって立つべく、大阪の緒方洪庵に蘭学を学ぶ。同門に福沢諭吉らの俊英多く学大いに進む。時あたかも黒船の来航を聞く。時局の急迫を明察し江戸に上る。近代兵学も究めて江川坦庵に武を講じかたわら英学を修める。令名すでにあまねく徳川幕府に迎えられて歩兵奉行となる。

 

 慶応4(1868)大政は奉還されたが、幕府和戦の両論に分れ、江戸は騒然 遂に立って榎本武揚らと北海に奔り旧恩に殉ずる。函館五稜郭に戦敗れて共に帰順、詩を賦して自ら省みる。

 

  閲来世運幾遷更 今日零丁何足驚

 

  誰正誰邪不強辯 丹心千載任人評

 

 明治5(1872)特に赦されて大蔵少丞を拝命して英米に使する。帰って後は再び兵を語らず、ひたすら興業に尽くし育英のことにあって励む。すなわち元老院議官、内国博覧会御用掛、工部大学校長、学習院長などを歴任して斯界に重きをなす。

 

明治22(1889)清国特命全権公使に兼ねて朝鮮国駐剳公使に任ぜられ、風雲ようやく告げる隣邦にあること5年有余、果断明快よく使命を全うする。

 

  

  にしひがし 国こそかわれ かはらぬは 人の心の 誠なりけり

 

 

 明治27年(1894)帰朝、枢密顧問官に任ぜられ国政の枢機に参両、出でては侃諤の論をなし入りては国府津の風光を友とする。晩年は悠々自適して明治44(1911)615日波瀾の多い栄光の生涯を終る。時に齢79

 

 大鳥先生は天禀の才を実学によって磨き、徳をもって師長となる。憂国の志篤く栄達を求めず至誠よく世を導く、その高風清節は人々のひとしく欽仰するところ、先生を敬慕する郷土の至情は町民をあげての顕彰会となり、明治100年を記念して銅像を建立する。

 

千種川のほとり故山を望むその英姿は崇くその遺徳は永遠に輝くを信ずる。

 

  昭和45113日                   大鳥圭介先生顕彰会

 

 

解説2
資料