千種高校のデータベース

千種高校歴史紹介シリーズ⑥ 「千種高校独立記念庭園」

解説

千種高校内の庭園と言えば、平成4年に整備された「中庭」が最もよく知られており、40歳代以上の卒業生の方々ならば、「ああ、昔ここにテニスコートがあったなあ…」という感慨を抱かれるのではないかと思います。また、「歴史紹介シリーズ①」でも最後に付け加えましたように、現在の庭園の象徴「自主敬愛の道」の碑が、平成4年までは今の藤棚の北側あたりに西向きに建てられていたということも、昔の卒業アルバム等から知ることができます。

今回ご紹介するのは中庭ではなく、また、校訓碑の置かれている本館西側の植栽でもありません。生徒の皆さんは、特別教室棟の1階を通って体育館に向かう時に「ピロティ」と呼ばれるコンクリートの空間に出ますが、その壁の南側、つまり千種高校の敷地の未申(ひつじさる)の方向南西隅っこに、「富士山」形の岩を中心に据えた実に見事な「日本庭園」があるのを知っているでしょうか。5階建ての校舎に隠れてしまっていてわかりにくいのですが、形のよい数々の岩は苔むして、四季折々の草花が石庭の周辺に生い茂り、秋には秋の、また冬には冬の風情が漂う不思議な空間となっています。唯、いつ頃建てられたのでしょうか、電信柱が2本背後にあり、その景観を壊してしまっているのが非常に残念です。

    

     
 

さて、この庭園は何のためにいつ頃造られたのでしょうか。上記の「中庭」等については記録が残っているのですが、この庭園については明確な記録が残されておらず、すべては校長室に保存されている歴代の「卒業アルバム」から推測した結果なのですが、これは「昭和50年に県立千種高校として独立を果たしたことを記念して造られた、独立記念庭園である」と結論付けました。現在の体育館が建てられたのは昭和45年3月。特別教室棟が完成したのは昭和56年10月。昭和49年のアルバムには、体育館西方は黒い土のままで何もありませんが、昭和51年(1976)3月卒業の方のアルバムには、次のような立派な石灯篭を配置した日本庭園の写真が残されています。この年以降のアルバムにこの庭園の写真を見つけることはできません。本当に貴重な記録写真です。そして、写真の後方に現在も残る富士山形の岩が写っているではありませんか。どの程度の面積を持つ庭園であったかはわかりませんが、昭和56年までは体育館の西方に存在し、特別教室棟の工事によってその大部分が切り取られてしまった、つまり、現存する隅っこの庭園は「千種高校独立記念庭園」の一部であることは間違いありません。


しかし、何と美しい形をした富士山形の岩なのでしょうか。周りの石の配置によって、私たちは中心であるこの岩に導かれ、思わず手を合わせたくなるような気持にさせられます。昨日のブログでも紹介した「笛石山(千種富士)」がここ千種にはあるということ。そして、この岩が配されている方向を考えると、以前に校訓碑を紹介した折りにも書きましたように(歴史紹介シリーズ②)、妙見社或いは後山(うしろやま)や日名倉山を向くように据えられていますので、この庭園ひいては千種高校の建設にも、自然豊かなこの千種の地に対する感謝の念及び山々や清流千種川への信仰心が働いているのではないかと思います。エジプトのピラミッドやカンボジアのアンコール・ワット等世界遺産の例を待つまでもなく、現存する遺跡等を目にすると「誰が、どんな情念でこれを建てたのか?」という疑問が湧いてきます。この富士山形の岩を中心とする築庭とて、一体誰が如何なる思いで造られたのでしょうか。興味が尽きません。
                      
昭和50年といえばそれ程古い話ではありません。必ずやこの日本庭園造園の経緯に詳しい方やこの庭園を設計された庭師・造園師の方がおられるはずですので、何かご存知の方がおられましたら、是非とも本校までお知らせいただきますようお願い申し上げます。

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兵庫県立千種高等学校校歌音声ファイルについて
解説

 平成25118日(金)、本校の校歌音声完全版がカセットテープで事務室倉庫内に残されていることがわかりました。調べてみると、「混声三部合唱」・「独唱」・「ピアノ伴奏のみ」の3種類が作製されており、テープと共にケースの中に小さく折りたたまれて入っていた手紙によって、昭和6311月に兵庫県立西宮高等学校音楽科1年生の生徒たちによって作られた、言わば「友情製作」によるものであることがわかったのです。昭和631127日に本校の「学校開設40周年記念式典」が挙行されており、その式典での披露に向けて当時の校長上山先生が、音楽科を持つ県立西宮高校に校歌テープの作製を依頼されたものです。

  以下、テープケースの中にあった手紙の文面を掲げます。

 

  秋もめっきり深まってきましたが、お変わりございませんか。私は音楽科1年生担任の吉永陽一と申します。寺尾先生からこのお話を受け、クラスで話しましたところお役に立てるならばと皆、大乗り気でお引き受けしました。しかし、出来ばえはもう一つで、ご期待に添えましたかどうかは疑問ですが、お納め下さい。

 A面には「合唱」、B面には「独唱」と「ピアノ伴奏のみ」を録音いたしましたので用途に応じてご利用下さい。

 歌唱指導には、B面の「独唱」がメロディーがはっきりするのでよろしいかと存じます。

 なお、伴奏及び混声合唱の編曲は山畑誠、独唱は江平真理子、伴奏安田亮子、そして合唱は1年生全員とすべて生徒が行いましたので拙い部分も多いかと存じますが、お許し下さい。また、この録音に使用いたしました楽譜につきましては、後日改めて送らせていただきます。

 これから、ますます寒い季節を迎えますので、くれぐれもご自愛下さい。

 

上 山  勝  先生

                                                       昭和63年11月22日

                                                              吉 永 陽 一

 

 手紙に登場する「寺尾先生」とは、当時の県立西宮高校校長、寺尾滋明先生です。後に、県立教育研修所長と県立長田高校校長を歴任され、退職校長の会「柏樹会」の会長にもなられています。また、「上山勝先生」とは本校の第4代校長で、電話でお尋ねしますと、「寺尾校長が友人であったので気軽に頼んだのですが、西宮高校の生徒たちがこころよく引き受けてくれたり、また吉永先生からそのような手紙をいただき、ありがたいことです。」とのことでした。そして、当時の西宮高校音楽科1年担任の「吉永陽一先生」は吹奏楽界では非常に有名な方で、母校である兵庫高校を数々の全国優勝に導き、西宮高校でも同様に大きな足跡を残され、現在神戸夙川学院大学特任教授、兵庫県吹奏楽連盟理事長、関西吹奏楽連盟副理事長、NPO法人アマバンド&スポーツ副理事長等の要職に就かれています。(お名前の漢字「吉」は、本当は上が「土」です)

 多くの学校では、周年行事を機に校歌のCDを作っているのですが、本校は小規模であるが故にそれだけの経済的余裕がありませんでしたので、当時の西宮高校音楽科の生徒による、本当に手作りのテープ製作となりました。改めて、当時の生徒の皆さん、そして吉永先生に厚くお礼申し上げます。「手作り」という意味では、是非とも近い将来、上の音声ファイルの第4番目として本校の生徒による合唱をお聞かせできるようにしたいと考えています。どうぞご期待ください。 

 なお、この校歌の音声が録音された昭和6311月は、下記の文面にもありますように、作曲者の秋月直胤先生が遠く埼玉でお亡くなりになった時であり、全くの偶然ではあれ、本校の校歌にとっては新たなる命が吹き込まれ、魂のバトンタッチがなされた瞬間であったのだと思います。是非とも、混声三部合唱・独唱・ピアノ伴奏のみの、それぞれの美しき調べをご堪能ください。(平成25121日 記)

 

※なお、音声をお聞きになればお気づきになるかと思いますが、「千種」を「ちぐさ」と歌っています。古くは「ちぐさ」と読むのが普通であったのですが、段々と両方の言い方が混在し、「ちくさ」と呼ぶ人が増える中で、平成4年頃に条例や文書で明記したわけではないのですが、行政上は「ちくさ」で統一しようということになったとのことです。なお、高校周辺の字名は「千草」で、これも今は「ちくさ」と言っていますが、本来は歌でも「庭の千草(ちぐさ)」と言うように「ちぐさ」と読みます。地元のゴルフ場「千草カントリークラブ」は現在も英語表記を「CHIGUSA COUNTRY CLUB」としています。なお、本校の「学校要覧」(上掲の楽譜と詞)では、「千種川」は昔も今も「ちぐさがわ」、最後の「千種」は平成19年度から「ちくさ」としています。

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兵庫県立千種高等学校校歌の作詞者と作曲者について

解説

 

 

本校の校歌は、昭和3841日、「千種分校の歌」として制定されました。作詞:松井利男先生、作曲:秋月直胤先生という、当時の校歌制作者として有名なお二人によって作られたものです。

 


【松井利男(まつい としお)先生】

 

松井先生は、明治43年(1910年)4月に現在の赤穂市有年の牟礼でお生まれになり、県立農学校(現県立農業高校)に学び、昭和7年に早稲田大学高等師範部国語漢文科をご卒業になりました。新浜村立新浜尋常高等小学校(現在の赤穂市立御崎小学校)を皮切りに、県立赤穂高等女学校、県立第二神戸中学校・県立兵庫高等学校、県立姫路東高等学校の国語科教諭として活躍をされています。その後、県教育委員会指導主事、県立姫路西高等学校教頭、県立教育研修所次長を歴任され、昭和36年に姫路商業高等学校の初代校長となられました(昭和364月~昭和403月)。従って、本校の校歌を作っていただいた時には姫路商業高校の校長先生でいらっしゃいました。その後、県教委教職員課長等を経て昭和43年に教育次長となられ、本県の教育行政に辣腕を振るわれました。昭和4549日に兵庫県民会館で行われた「高校生の社会意識」と題するご講演は、当時「日本講演会」が発行した『日本講演:日本一の名講演集』(同年511日号)という冊子の中に収められており、今でも読むことができます。また、同年113日、先生の郷里に近い赤穂郡上郡町(上郡町役場前)に建立された大鳥圭介先生の銅像台座裏側に刻まれている碑文「顕彰のことば」を撰び、記されています。なお、若い頃から晩年に至るまで国語教育に関する著作が幾つかあり、『文法の指導計画:主として小学校における』(1955、光風出版)、遠藤嘉基氏との共著で『古典解釈文法』(1985、和泉書院)、『わたくしたちのことばと文法 口語篇~口語品詞編』(195253、文教出版)、『ことばと文法[1][3]』(1955、文教出版)等が挙げられます。

 

もう一点先生に関して特筆すべきは、その生涯を通じて同和問題に深く傾注された方であったということです。教育次長であると同時に、当時県庁内に設置された「同和教育指導室」(現在の人権教育課)の初代室長として大いなる指導力を発揮され、現在の同和教育立県「兵庫」の基礎固めとなる同和教育精神の確立、同和教育資料の編纂は勿論のこと、各界各層における同和問題学習会での指導助言やご講演は100回以上にも及んだということです。本校第3代校長の樫本玉男先生と第4代校長の上山勝先生は、当時同和教育行政或いは委員会活動等を通じて直接先生の謦咳に接し、薫陶を受け、兵庫県下各地の講演旅行に同行し、鍛えられ、「今の自分があるのは松井先生あったればこそ。」と強い尊崇の念を寄せておられます。正に兵庫県同和教育推進の羅針盤的存在でありました。
   
昭和463月をもって教育次長をご退職になった後も、兵同協会長や姫路学院女子短期大学副学長等の要職を歴任され、尚且つ複数の大学で教鞭を執っておられました。先生は、昭和622月に78歳でお亡くなりになったのですが、同年11月には元同僚・後輩及び教え子等が相集い、「松井利男記念論文集刊行会」の編で、『同和教育論 松井利男と兵庫県同和教育運動』(1987、草風館)という本が出版されています。


 

【秋月直胤(あきづき なおかず)先生】

 

秋月先生は、昭和264月から363月まで山崎高校で音楽の教諭をされていた方です。従って、千種分校でも教鞭を執っておられました。山崎高校の卒業生(現在50歳以上の方々)ならば、誰もが口ずさむことのできる名曲「山崎高校生徒会歌」(昭和27年、作詞:小倉悠丘・作曲:秋月直胤、分校歌制定まで約10年間千種分校でも歌っていた)の作曲をされた方でもあります。が、実は、秋月先生が山崎に来られたのはもう不惑の年を越えられてからのことであり、また、ご自身の来歴について多くを語る方ではありませんでしたので、それ以前のことを知る人は山崎にはほとんどおられません。

 

先生は岡山のご出身(漢学者のご家庭)で、上野の東京音楽学校(現在の東京芸術大学)声楽科を首席で卒業し、1年先輩には藤山一郎がいました。山田耕筰先生の推薦で歌謡界の花形「コロンビアレコード」に入り、戦前にはかなり人気のある歌手であられたのです。芸名「青山薫」。これは、当時第一級の詩人であった西条八十先生から頂いたものでした。同社には、淡谷のり子、伊藤久男、ミスコロンビアらがいて、後に有名になる霧島昇などは青山薫の付け人であったということです。青山薫時代の歌声は、YouTubeで一曲だけですが「輝く満州」という名で検索すれば聴くことができます。その後、レコード会社を離れてクラシック界に復帰し、特に山田耕筰先生が自作の歌曲を発表される際には、藤山一郎や二葉あき子らと共に、バリトン独唱者として必ず先生を出演させていたということです。大東亜戦争が勃発し、戦況が悪化する中で、戦中・戦後の数年間は郷里の岡山に疎開しておられましたが、昭和23年に大阪音楽大学から声楽部長・教授として招聘され、音楽教育に精を出されました。然し、その後如何なる理由でか大学を退き、新設音楽大学の設立計画に奔走するも成就せず、山崎高校に来られたようです。尚、奥様も共に山崎に来ておられましたが、元首相にして蔵相・高橋是清の姪でありました。

秋月先生は、山崎高校時代に何度か生徒の前で独唱され、単なる声楽家を遥かに超えた非常に精妙なる歌声で多くの聴衆を魅了されたというエピソードが幾つか残っています。山崎高校8回生(昭和31年卒)で元広島大学教授(ドイツ文学)の武田智孝氏(山崎町高下のご出身)はご自身のHP『ドイツ文学散歩』の中で、入学式の時に聞いた秋月先生の独唱による国歌「君が代」は、これが人の声であろうかと思うほどのすばらしい美声であったと書き、その後長年にわたって何度も本場のヨーロッパで数多くの方の歌曲を聞いたが、あの時秋月先生から受けた感動を超える歌声には未だ出逢ったことはないとも語っておられます。また、11回生(昭和34年卒)で高校1・2年次の担任が秋月先生であったという村上紘揚先生(宍粟市教育委員・元山崎高校長)は、文化祭でタキシードに蝶ネクタイという装いで壇上で独唱されていた姿が今でも脳裏に焼き付いているとおっしゃっています。普段の服装も非常にお洒落で、山崎の町ではよく目立つ方でもあったようです。
  山崎高校に約10年間おられて数多くの生徒を大阪音大へ進学させた後、昭和364月に新設の県立姫路商業高校(6月まで姫路西高内仮校舎)へ異動され、この時初代校長の松井先生と出会われて希代の校歌コンビが誕生するのです。姫路商業高校には、昭和443月定年退職までの8年間に加えて、昭和463月までの講師期間、計10年間お勤めになったのですが、その間姫路を舞台にして「播磨芸術文化運動」とでも言うべき動きの中心的存在として活躍され、姫路城昭和の大修理・修築記念事業で自作の「白鷺城賛歌」を上演され、姫路出身の小説家・椎名麟三氏作「姫山物語」のミュージカル作曲やオペラ「修禅寺物語」等を発表されています。また、昭和40年(1965年)に第3回姫路文化賞を受賞されてもいます。その当時の先生のご様子は、現在「姫路文学人会議(「文芸日女道」を刊行)」の主宰者である市川宏三氏の手になる『たゆらぎ山に鷺群れて』(北星社)の中に幾度となく登場し活写されており、市川先生に伺うと、「とにかく歌唱指導に卓越した方だった。また、歌詞を見ればメロディーが頭の中に閃き、ピアノからすぐに曲が生まれるという技は、如何なる作曲の名手とて決して真似のできないものであった。こんなに優れた才能をお持ちの方が何故中央(東京)で活躍されないのかと皆不思議に思っていた。」とのことでした。つまり、その当時姫路で秋月先生の指導を受けた方々は、先生が戦前コロンビアレコードの専属歌手であったなどということは全く聞いたことがなかったということです。姫路商業の後は、埼玉県にご子息が居られた為居を移され、昭和48年に埼玉県立川越高校の音楽講師に迎えられたりしながら関東で活動されていたということです。没せられたのは昭和63年(1988年)11月。生年が明治44年(1911年)ですので齢78歳、喜寿の翌年。

【校歌づくりの名コンビ】

 

 前述のように、松井先生と秋月先生は校歌づくりの名コンビでした。少し調べただけでも、姫路商業高校は当然としても、この西播磨一円で両先生の名を冠する校歌(小学校・中学校)が如何に多いことか。本当に驚くばかりです。詞と曲の面で分野は違えど互いの才能をよく見抜いたが故に響きあうところ大であったのではないかと察せられます。奇しくも両先生は生没年がほぼ同じであり、共に78年のご生涯。異なった分野で活躍しながらも、姫商を舞台に互いの人生を交差させながら校歌づくりにいそしんでおられたことは間違いありません。校歌というものは、正に創立当時の熱意や学校に対する地域の期待を一身に背負っているものです。松井先生の典雅なる詞と、秋月先生の溌剌颯爽としたリズミカルな曲が見事な調べとなって、この後100年経っても200年経ってもいついつまでも、それぞれの学び舎に集う若者たちに大いなる勇気と誇りを与え続けてくれるでありましょう。 
平成25 116日 記)

 

  松井利男 先生

  秋月直胤 先生



【千種分校生の校歌に対する想い】
 千種高校は昭和50年に独立を果たし、「兵庫県立千種高等学校」となるわけですが、それまでの分校時代に本校と分校の関係及び校歌の位置づけが如何なるものであったかがわかる貴重な証言が、育友会報「敷草」の中に残っています。


 
          「卒業式に千種分校の校歌を歌いたかった」                昭和42年度卒業生

  昔は入学式も卒業式も本校で行っていたので、山崎高校の校歌を歌わなければならないのですが、私達は習っていな
かったので歌えませんでした。千種分校の校歌は今の千種高校の校歌と同じです。式典などでは歌ったことはありませんが、音楽の時間に2、3
回歌いました。歌詞やメロディーはスーと出て来ます。思い出の曲みたいです。卒業式には歌えるといいなと思っています。生徒達が有意義で楽しい生活を送れますよう、先生方よろしくご指導お願いします。                                                   (「敷草」第35号:平成7720日発行)


  現在の校歌は、分校時代には「千種分校の歌」と呼ばれていました。制定された昭和38年の「千種分校学校要覧」には、当時本校及び分校で書道を教えておられた大岩祥峰先生が細筆で書かれた歌詞が残っています。なお、この匿名の文で「山崎高校の校歌」となっているのは「山崎高校生徒会歌」(作詞:小倉悠丘、作曲:秋月直胤)のことで、昭和54年に現在の校歌が制定されるまで生徒会歌が歌われていました。いずれに致しましても、当時の分校生の切なる想いがよくわかり、独立の喜びが如何に大きなものであったかが察せられます。 (平成25年3月10日 追記)

 



【資料:大鳥圭介先生「顕彰のことば」(松井利男先生撰)】

 上郡町役場前に大鳥圭介先生の銅像が立っています。ゆったりと流れる千種川を前にして、瞳は常に東方を見つめ、今でも天下国家の行く末に想いを馳せているかのようです。銅像台座の後方には「顕彰のことば」が刻んであり、この碑文こそが我が松井利男先生の撰び記されたものなのです。
   時に昭和45年11月3日、大鳥圭介先生顕彰会により建立される。


   
  
(撮影:平成25年3月9日)



大鳥圭介先生顕彰のことば(松井利男先生撰)

 
顕彰のことば

 

 松井利男撰 西本広書

 

明治100年を記念して

 

銅像を建立

 

昭和45113

 

大鳥圭介先生顕彰会

 

 

 

 正二位勲一等男爵大鳥圭介先生、諱は純彰 赤穂郡岩木の人 天保3(1832) 228日父直輔母節子の長子として生れる。幼にして頴悟稍長じて岡山藩閑谷黌に漢学を修める。      嘉永5(1852)家業の医をもって立つべく、大阪の緒方洪庵に蘭学を学ぶ。同門に福沢諭吉らの俊英多く学大いに進む。時あたかも黒船の来航を聞く。時局の急迫を明察し江戸に上る。近代兵学も究めて江川坦庵に武を講じかたわら英学を修める。令名すでにあまねく徳川幕府に迎えられて歩兵奉行となる。

 

 慶応4(1868)大政は奉還されたが、幕府和戦の両論に分れ、江戸は騒然 遂に立って榎本武揚らと北海に奔り旧恩に殉ずる。函館五稜郭に戦敗れて共に帰順、詩を賦して自ら省みる。

 

  閲来世運幾遷更 今日零丁何足驚

 

  誰正誰邪不強辯 丹心千載任人評

 

 明治5(1872)特に赦されて大蔵少丞を拝命して英米に使する。帰って後は再び兵を語らず、ひたすら興業に尽くし育英のことにあって励む。すなわち元老院議官、内国博覧会御用掛、工部大学校長、学習院長などを歴任して斯界に重きをなす。

 

明治22(1889)清国特命全権公使に兼ねて朝鮮国駐剳公使に任ぜられ、風雲ようやく告げる隣邦にあること5年有余、果断明快よく使命を全うする。

 

  

  にしひがし 国こそかわれ かはらぬは 人の心の 誠なりけり

 

 

 明治27年(1894)帰朝、枢密顧問官に任ぜられ国政の枢機に参両、出でては侃諤の論をなし入りては国府津の風光を友とする。晩年は悠々自適して明治44(1911)615日波瀾の多い栄光の生涯を終る。時に齢79

 

 大鳥先生は天禀の才を実学によって磨き、徳をもって師長となる。憂国の志篤く栄達を求めず至誠よく世を導く、その高風清節は人々のひとしく欽仰するところ、先生を敬慕する郷土の至情は町民をあげての顕彰会となり、明治100年を記念して銅像を建立する。

 

千種川のほとり故山を望むその英姿は崇くその遺徳は永遠に輝くを信ずる。

 

  昭和45113日                   大鳥圭介先生顕彰会

 

 

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春名文庫について

解説

本校図書室の窓側西端の書棚に、「春名文庫」と書かれた木製の掲示板が立てられています。実は、これはつい最近まで同じ図書室内の全く別の書棚の上に置かれていました。年を経る中でその意味も全く忘れ去られてしまっていたものなのですが、今回は「春名文庫」について、その記録を後世に遺すべく書き留めておきたいと思います。

左下の写真で、書棚の2段目と3段目に並んでいる「NHKブックス」が「春名文庫」です。ベージュの表紙と背中に青いマークが付いていますのでよくわかります。この書棚と離れて、図書室北側に置かれている棚にもNHKの大型本、「交通博物館」等が数冊ありますが、これも「春名文庫」の中に含まれています。形が大きいので、別の所にあるようです。

     

「春名文庫」とは、昭和40年から昭和59年1月まで本校に数学科教諭として奉職された、「春名俊秀先生」の名前からつけられています。千種町七野のご出身で千種分校1期生のお一人。そして分校時代から昭和50年の独立を経て、18年間にわたって本校で教鞭を執られ、昭和59年1月18日にご病気のため現職でお亡くなりになった方です。今から30年前のことですから、51歳でいらっしゃったと思われます。

    
  後列左端が春名先生(40周年記念誌より)       前列中央が先生(卒業アルバムから)
      

学校で一番厳しい先生-春名先生。そして一番優しい先生-春名先生。当時そのような声が生徒諸君の中にはあり、同僚の先生方にも広く慕われていた方であったようです。本校のPTA会報(当時は育友会報)「敷草」第12号(昭和59年2月25日発行)から、幾つか追悼文を紹介させていただきます。

     「教えて厳」-春名先生を悼む- 大 西 一 爾 (昭和56年~60年教頭)
 「教えて厳ならざるは、師としての怠りなり」。『言志四録』にあったと記憶している。なくなられた春名先生をおもうと、この言葉が浮かぶ。
 定時制時代の分校に学び、本校卒業生の大先輩であった先生は、教職を天職とし情熱を傾けられた。「社会に出て通用する人間に」、「知識や技能だけでなく、しつけが身についた人間に」。先生がいつも口にしておられた言葉である。本校創立の精神に生き、身をもって厳しく実践されていた姿を、いまも目前にするようなおもいである。

      - 生徒の弔辞より -   生徒会役員 大 北 康 代
 千種高校生の生徒を代表して、春名先生にお別れをいわせていただきます。
 春名先生が亡くなられたと聞いたとき、あんなにお元気そうだったのに、と信じられませんでした。
 お話をなさるのも苦しそうなのにマイクを使って私たちに熱心に教えて下さった先生の御苦労もよく理解せずに、時々、ふまじめな態度だったこともありました。今思うと、そんな自分たちが情けなくて、つらい気持ちでいっぱいです。
 何日も遅くまで補習をして下さったこと。進路について親身に相談にのって下さったこと。機会あるごとに、あの優しい笑顔で声をかけて下さったこと。だらしないこと、いいかげんなことをしていたら、こわい顔で厳しく注意して下さったこと……。今になってやっと、春名先生がどんなに真剣に、本気で、私たちのことを考えて下さったかが、はっきりとわかります。
 春名先生にもう二度と教えていただけないなんて信じられません。今にも「そこ、静かにせいよ。」、「ホックをきちんととめんか。」、「こらよう勉しよるか。」という先生のお声が聞こえてきそうな気がしてなりません。教えていただいた多くのこと、数々の思い出を心の糧にして、先生が望まれていたように、素直な誠実な人間になっていきたいと思います。
 春名先生、安らかにお眠り下さい。


1年後の昭和60年2月に発行された「敷草」第14号には、春名先生と同じ1期生の尾関豪一さん(千草)が一周忌の追悼文を寄せておられ、当時中学校の仮住まいで夜の授業をローソクの火を灯して受けたことや、授業が終わった後は教室の火鉢を囲んで話し込み、家に帰るのは夜中になったことなど、懐かしい思い出を綴っていらっしゃいます。

その同じ「敷草」の中に、「春名文庫」創設の紹介文が掲載されています。

 故春名俊秀先生のご家族から、千種高校のために、といただいた大切なお金で、本を購入させていただきました。
 NHKブックスの中から千種高校生に読んでもらいたい本を選び、「春名文庫」として図書室の一画に、コーナーを設けることになりました。
 生徒の皆さんは、故春名先生や御家族のおこころにかなうよう、大切に、十分に、活用して下さい。

今からほぼ一年前の平成25年1月18日、お昼頃に春名先生の奥様にお電話をさせていただいて、「敷草」の中でいろんな方が先生への想いを綴っていらっしゃることや、18年という本当に長い間千種高校がお世話になったことへの感謝の気持ちを伝えさせていただきました。昨年の夏にお亡くなりになった山本賢有先生もそうですが、分校時代から独立を果たす頃を含めて、長きにわたって千種高校を見守っていただいた多くの大先輩の先生方がおられてこそ今があるということを、私たちは忘れてはならないと思っています。(平成26年3月6日雪の日 記)

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『兵庫教育』所収・梅谷博貞先生論文

解説
『兵庫教育』(第28巻 第1号 通巻301号 昭和51年4月20日発行)所収
 
                   「僻地小規模校独立の道を求めて」
                                                 梅 谷 博 貞
 
1 独立を迎えて
 
 正面玄関のコンクリート壁に「千種分校」と埋めこまれていた鉄板文字を外して、「県立千種高等学校」の文字を入れた。
 「応接室」とあった標示板を「校長室」と書きかえて4月を迎えた。
 昭和50年度は特別の年であった。
 生徒も教師も父母も地域の人たちも念願し続けていた独立校になったのである。
 だから、学校経営の方針や重点を決めるときも「校長先生がお見えになってから…。」とすべて独立待ちとなっていた。
 「校務分掌をどうするかね」「校長先生の御意向を聞いてからにしよう。」
 「野球部を軟式から硬式に変えたいが…。」「校長先生が見えてから決定しよう。」という具合であった。
 それ故、新学期の出発はすべて遅れていた。
 しかし、独立校となったよろこびは大きなムードとなっていたのである。
 学校経営の重点
 悲願であった独立第一歩の年として、従来の気風を刷新し、独立校としての自覚にめざめ、地域社会の期待にこたえ、その使命と責任を果すため、校風を刷新し、基礎の確立につとめる……。
 これは、校長の手によって書かれた学校経営の重点の序文であるが、このときの校内の空気をよく反映している。
 学校経営の重点をまとめるため、各部から原案を出してもらったのであるが、「独立を契機として、職員、生徒一体となり……校風の樹立につとめる。」「独立校としての学校運営の円滑を期するため、校務分掌組織の事務範囲と目標を明確にし……。」などとあり、同和教育室からのものにも、「特に本年は独立の転機に立って、小規模独立校の特性を生かし……。」とあった。
 なにぶんにも全校生269名という小さな学校のことである。
 生徒や教師の気持ちがすぐにひびきあい敏感に反応しあうのである。
 生徒も「独立したんだから」という気負いと緊張のようなものを持っていた。
 教職員の間でも「独立校にふさわしいように……」という言葉を前置きにして討論することが多かった。
 町の人たちも「独立したというのに……」ということばで生徒の態度や学校を批判し、「さすがは独立しただけのことがあって…。」と評価するのだった。
 今、私たちは、「独立してどれだけ変ったのだ。」という評価の前に立たされている。
 
2 僻地小規模校の道を求めて
 
 生徒、教師、父母や地域の人たちが独立校になることを強く願ったのは、「分校」が持っているいろいろな矛盾に悩んでいたからである。とくに劣等感や被差別感を抱きやすい生徒たちにとっては切実なものであった。
 その念願が達成されて「独立校」になったのであるが、僻地小規模校という事実は少しも変っていなかった。
 「みどりのふる里」千種の山野は美しいが、そこは産業にも文化にも恵まれていない土地であり、生徒の家庭は貧しく、人口の減少が続いている。
 学校の施設、設備は不十分であり、予算は少ない。
 寒冷地であり、交通が不便で、県立の独立校として「僻地手当」のつくただ一つの学校でもある。
 僻地小規模校としての矛盾は、独立校となってもやはり残っているのだった。
 しかし、小規模校は欠陥だけを持っているのだろうか――
 昭和50年度研究テーマとして私たちは、「僻地小規模独立校の特性をどのように生かしていくか」と、ただ一行だけ書いている。
 しかし、これは私たちがこの一年間追い求めたテーマであるのだ。
 「生徒に対して甘すぎるのではないのか。」という自戒のことばがよくいわれている。
 放課後になると、職員室は生徒たちでいっぱいになることがある。
 職員室のストーブが生徒たちに占拠されてしまうこともしばしばである。
 英語の教師を囲んで海外文通の話題に花をさかせている生徒があり、現国の若い教師のまわりでは生徒が雑談している。
 古典の教師は毎日数名ずつを呼んで小テストをやっている。
 その前の若い数学教師のところには数人の生徒が質問に来て、いっしょに問題を解いているが、ときどき「先生ダメダー」といって教師の頭をつかんでゆすったり、肩をたたいたりもする。
 生徒と教師が人間的につながり、「落ちこぼさない教育」のためにはもってこいの条件を持っているのである。
 一人の生徒の母親が病気をしてもすぐ職員室の話題になり、一人の生徒が怪我をしたと聞くと全職員が総立ちになる。
 たまたま一人の生徒が授業中、こっそり弁当箱をあけようとしたことがあった。すぐ職員室の話題になり、次から次へと職員がその生徒に説教を試みたので、「教師全員が私を弾圧している。」と反撥させたこともあった。
 いいにしろ、悪いにしろ、ひとりひとりの生徒や教師の行動がすぐ全体にひびくのである。
 ある教師が、寝たきりの少女の詩を紹介した。数人の生徒は早速その少女に慰めの手紙を書き文通をつづることになった。
 又、教師がひと言いえば、下校時に、便所の下駄はきれいにそろえられているのである。
 この小規模校の特性を、どのように体系化し、計画化して行くかが私たちの課題である。
 
3 点検と反省からの出発
 
 3学期に入って、教師はレポート書きに忙しかった。
 自分の所属した校務について、学級経営、クラブ指導、教科指導について、この一年間に実践したことを記録し、そのなかで出合った悩みや問題点、反省点を書いてプリントした。
膨大な実践記録集が出来上がったのである。
 これをもとに実践点検の職員会をすかいにわたって続行した。
 なにぶんにも少人数の職員会である。
 「生徒Kの指導は、あのやり方ではよくなかったのではないか。」「2組のTとOの恋愛問題はどんな指導をするべきなのか。」と具体的である。
 「われわれ教師が、学校経営の重点という目標に向って進むように、学級経営にも目標を明確にすべきではなかったろうか。」との意見もあった。
 小規模、少人数、人間的なつながりの深さ。だからこそ「すぐ分り合ってしまう」という甘さをどのように克服すべきなのか。
 現在、私たちは昭和51年度の校務分掌の作成にかかっている。
 再び学校経営の重点を設定する作業に取り組む季節になった。
 今の私たちの合言葉は「50年度の反省に立って」である。
 もちろん、私たちは反省ばかりしているわけではない。同和教育でも、教科指導、生徒指導についても、いろいろと実践し成果を挙げたという自信も持っている。
 しかし反省点や問題点は余りにも多いのである。
 現在の教育界がかかえている問題は大きくて複雑である。私たちの力の及ばないものが多い。
 51年度も又、方針や目標を立て、そして50年度と同じように達成できないであろうし、きびしい反省会をもつことであろう。
                                              (県立千種高等学校・教頭)
 
 筆者である梅谷博貞先生は、昭和44年4月から昭和50年3月まで分校長、昭和50年4月から昭和52年3月まで、初代吉田太郎校長のもとで教頭を務められた方である。上記論文は、『学校開設40周年記念誌』や『50周年記念誌』以外に、本校が独立校となった頃の様子を今に伝えてくれる貴重な証言記録である。約40年前に手に入れた冊子を捨てずに持っていたのであるが、去る平成26年6月15日(日)、同冊子を久々に手にしてぱらぱらとめくっていて「発見した」のがこの論文である。独立当時の喜びと共に、先生方の苦悩が率直に語られていて興味深い。それでも当時の生徒数は269名。現在は100名である。梅谷先生が何度も用いておられる「小規模独立校」の現状は、当時にも増して厳しいものがある。私たちは先生の言葉を何度も読み返し、時を超えてその問題意識を共有しつつ「千種高校」存続の道を常に模索していかなければならない。
 なお、梅谷先生は、後に「県立温泉高校(既に廃校)」の校長となられており、前述の『40周年記念誌』(昭和63年11月発行)には「前県立温泉高校長」として独立当時の回顧録を寄せておられる。県立浜坂高校や第4代校長上山勝先生に問い合わせた結果、平成15年1月にお亡くなりになっていたことが分かった。謹んでご冥福をお祈りしたい。
                                     (平成26年6月19日 記 教頭 原田尚昭)
 
       

   『兵庫教育』表紙         梅谷博貞先生


本稿の参考資料として、『兵庫教育』所収論文と『40周年記念誌』の各先生方回顧録(吉田校長、樫本校長、梅谷先生)をPDFファイルにて掲載しておく。

梅谷先生論文.pdf  初代吉田校長回顧録.pdf  3代樫本校長回顧録.pdf  梅谷先生回顧録.pdf

カテゴリー 歴史紹介シリーズ